江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性 である幇間や太鼓持ちを指し、芸妓が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。
太鼓持ちは何故、艶っぽいお話や芸をする訳とはとは何なのでしょう。艶っぽい話とは、いわゆる下ネタを婉曲に話すことです。
日本は農業国でしたから、冬を越す食糧確保がもっとも重要でした。
その食糧とは稲です。稲の花が咲き雄蕊の花粉を雌蕊が受粉する事で米が実り、冬を越す食料を確保できます。動物では雄と牝が交尾する事で増え、次世代につながって行きます。それらが又我々の生活の安定をもたらし子孫の繁栄にも成ります。
艶っぽい行為(性交)は幸福に繋がっているのです。婀娜っぽい女性に目 移りすることは不幸に繋がっていきます。種をまくのは自分の畑だけにしておきましょう。
農家では、農作業が一段落した休みの日は、辛い農作業から開放され、羽目を外して地域の皆で喜びあいます。一緒に美味しいものを食べ、お酒を飲み、楽しく過して明日からの仕事の英気を養うのです。これが宴会の始まりであり、宴会の宴席の時にだけ艶っぽい話(下ネタ)や芸で楽しむ事を許されたのだそうです。
そして、下ネタを婉曲に話し、下品なものから艶っぽい話にし、その優れた者が専門職の太鼓持ち芸として伝承されて来たのです。
芸者よりも古くから存在する太鼓持ち(正式名称は幇間/ほうかん)芸は、永年に渡り培 われて来た日本の文化や行事を基本として、歴史や文化を比喩して楽しいお遊び芸になったのです。時代とともに芸は磨かれて、お客様の対応をして、お客様が主役となり、仕事を忘れて楽しんで頂ける様に、お客様に遊びを目立たない様に指南し補助する役が太鼓持ち業なのです。
本来「太鼓持ち」は通称でして、正式名称は「幇間(ほうかん)」といいます。「幇(ほう)」と「間 (かん)」の二つの言葉から成り立っていて、「幇(ほう)」は日本語では助けると言う意味があり、「間(かん)」は人と人の間、則ち人間関係を表す意味を含んでおり、その二つの言葉が合体して出来た言葉で、人間関係を助けるとの意味になります。
では何故「幇間(ほうかん)」が、日本語では太鼓を持つ人と言う意味の「太鼓持ち」と言われる様になったのでしょうか。
一つ目は、武士で最初に日本を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし:1536~1598)が、1585年に天皇様から関白(かんぱく)の位を頂いたのを養子の秀次(ひでつぐ)に1591年に譲り、太閤(たいこう)秀吉となりました。お側衆(おそばしゅう)が太閤様のご機嫌が悪いとご機嫌伺いをして いました。豊臣秀吉の伽衆(将軍・大名のそばにいて話し相手や書物の講釈などをした人)を務めたと言われる曽呂利新左衛門(本業は鞘(さや)師。鞘に刀が「そろり」と合ったのでこの異名があるという。生没年未詳。)を祖とすると伝えられています。
ご機嫌良くするのを日本語では「相手を持ち上げる」とも言いますので、太閤様のご機嫌を良くする意味の「太閤様を持ち上げる」を縮めて「太閤持ち上げ」「太鼓持ち」となったという説。これは、曽呂利新左エ門の存在自体が疑わしく、後付の感が免れません。
二つ目は、1678年に書かれた日本全国の色里案内書「色道大鏡(しきどうおおかがみ)」に 文献では始めて太鼓持ちの説明が有ります。日本では多いに遊ぶ事を「ドンチャン騒ぎ」とも言います、日本語では太鼓の音は「ドン」と鉦の音は「チャン」と表現し、「鉦」は「お金」と同じ発音なのでお金を出して遊ぶ人がお客様で、お金は無く「太鼓」を持って「ドンドン」と面白く騒ぐので「太鼓持ち」と言われる様になったという説。実際はお座敷で太鼓は叩きません。
三つ目は、日本は古来稲作中心の農作業は大変な重労働で、春には水田の中を一列に並ん で腰を屈めて早乙女が苗を植える「田植え」を行ないます。これは生命を生み出す女性の仕事でした。辛い労働を少しでも和らげ調子良く作業がはかどる様にと、男達が太鼓を打ち鳴らし、唄を唄い舞う「田楽(でんがく)」から、お賑やかに囃し立てる人を「太鼓持ち」と言われる様になったという説。しかし、これは屋外であり、田植え、田楽は神事であったことから違うと思います。
四つ目は、太鼓演奏の名人が太鼓を演奏しやすい様に持つお弟子さんが居て、常に師匠か ら演奏の時には持つ様に指名されたので、他のお弟子達は嫉妬して彼は師匠の太鼓を持つだけの人間だから「太鼓持ち」だと言われ、師匠を気分良く満足させので「太鼓持ち」となったという説。ここら辺りが意外と単純で正解のような気がします。
他にも諸説色々有って面白いのですが、これといった決め手になるような説はありません。「太鼓持ち」は「芸者さんを持ち上げる」裏方さんだったからではないでしょうか。目立たないことこそ「太鼓持ち」の真骨頂だったのです。
幇間は別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」と呼ばれる人もいました。
家康の孫・三代将軍家光は大久保彦左衛門(1560年-1639年)を自分の伽衆に加え、祖父家康公の話や戦国の世の苦労話などを進んで聞きました。 曽呂利新左衛門は「落語家」の祖であり、大久保彦左衛門が 「太鼓持ち」の祖であるという説もあります。
「太鼓持ち」と言う言葉は現在ではほとんど使われなくなってしまいました。現在では人間関係を良くして雰囲気を盛り上げる人と言う意味では無く、上司の意見に反論もせずただ従い、御無理御もっともとヘラヘラ付いて行く人を蔑んで「太鼓持ちの様だ」とバカにした時に使われる事があります。
上っ面だけを見て、中身を見ない言い方で、これでは 「太鼓持ち」も浮かばれないと思います。
現在では 「太鼓持ち」という職業の方はいないのかもしれません。宴会になると、やけに張り切る「太鼓持ち」らしき人は何処の会社にも一人や二人いますけれど・・・。
したっけ。