貞奴、音吉、市丸、染太郎・・・など、芸者の名前には男と間違えてしまいそうなものが多いことは御存知でしょう。とはいっても、私、そんな豪勢な遊びはしたことがなく、物の本によって知っているだけですが・・・。
これは江戸時代の売色業者の法の網くぐりの名残なのです。
江戸時代は、身分制度がはっきりしていて、今では想像もつかないほどの人権軽視がありました。
しかし、その徳川幕府でさえも奴隷制度だけは厳重に禁止していました。19世紀後半まで奴隷を使っていたアメリカとは大違いです。特に婦女子の人身売買は、極刑に処せられることになっていました。
江戸でも同じこと、吉原では女性を売ったり買ったりでやり取りをして、法律などあっても無きがごとし。もちろん、おおっぴらにやっていたわけではありません。
先ず年季奉公の形をとるということ。これですと、人身売買にはなりません。それから手続き上養女とすること。カモフラージュの方法はいくつかあったようです。やく80%の女性が年季明けで自由になっていたそうです。
その中に、女性なのに証文上は男にしてしまう方法もあったのです。これが現在まで、芸者の男名前として残ってつづいているのです。
いつの時代でも、お役所仕事は紙の上だけで現実は見ていないものなのです。見て見ないふりをしていたともいえるかもしれません。
深川では男名前だけではなく、そのころ女性は着なかった羽織まで着て男性化をはかり、俗に「羽織」といえば深川芸者(辰巳芸者)のことをさすようになりました。
辰巳芸者とは、深川が江戸城の東南方、すなわち辰巳の方角にあたるところから、呼ばれるようになりました。
羽織は、安土桃山時代から戦国武将に戦場での防寒着として鎧の上から陣羽織が着用されるようになり、便利であったためかすぐに日常でも着用されるようになった。この頃は「羽織」と言う名称ではなく「胴服」と言われていた。
薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。
深川は明暦(1655-1657)ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されている。
また源氏名も女性らしい名前ではなく、「染吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。これは前記のように、男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもあったのです。現代でも東京の芸者衆には前述のような「奴名」を名乗る人が多いそうです。
尚、深川は岡場所と呼ばれ、幕府公認の吉原などと異なり非公認の私娼屋が集まった歓楽街でした。岡とは、「傍(おか)」、すなわち、わきの場所の意で岡惚れ、岡っ引きなどと使われた。
深川芸者の色っぽい男名前の裏側には、売られた女の悲しい歴史があったということです。
したっけ。