堺市を歩く2
出羽の海部屋の宿舎となっている堺市大町東の祥雲寺から南宗寺に向かって歩いていると町内パトロールの人からかなり距離がありますよ言われた。タクシーに乗るまでもない距離と思い歩いていると実に寺院の多い町である。堺市駅の文化センターの職員が祥雲寺のことを知らないのは当然と思われるくらい寺院が多く由緒書きの掲示のある寺院も多い。少林寺小学校と言うのも道中に在った。道が突き当たると左によれ道なりにさらに東に向かうといつの間にか南宗寺の東門に出ていた。南宗寺は京都大徳寺派の禅宗の寺で千利休と縁がある寺で沢庵和尚も関係している寺である。堺の人達は建物を造ることが好きだったようで普請道楽ともいえたがさすがに大阪夏の陣のあと堺の経済の没落とともに精彩を欠いていった。しかし酒造の歴史を調べると酒や醤油の江戸への出荷地として栄えていたようである。夕方4時を過ぎていたので寺の中を見ることが出来ずそのまま出てさらに東に向かうと堀というくらいの土居川にぶつかる。サギの一種か鳥が土居川のところに一本足で立っていた。南宗寺の南は熊野街道であったらしく堺の五街道の掲示板を見て熊野街道と思われる道を大阪に向かって歩く。アーケードのある山之内商店街に向かって歩いていると花屋と思うくらいに草花で飾ってある個人の住宅があった。近所でも有名な家でしょう。昔は繁盛していたと思われる商店街を出ると竹内街道にぶつかり街道を南海電鉄堺東駅に向かって歩く。今でも堺市の中心らしく公共施設が道沿いに多い。竹内街道と長尾街道はともに奈良に向かっているがどちらかと言えば沢庵漬の樽に縁がありそうなのは竹内街道沿いと見ている。それは奈良の春日大社・興福寺の酒造から見て日本で始めて清酒が奈良で造られ、その清酒造りの過程で米糠が発生し、清酒造りの廃棄物かまたは輸送容器の樽の再利用で沢庵漬が考案されたと思う。沢庵和尚が堺から奈良の間の人から沢庵漬をもらい和尚が工夫普及させたと思われる。
出羽の海部屋の宿舎となっている堺市大町東の祥雲寺から南宗寺に向かって歩いていると町内パトロールの人からかなり距離がありますよ言われた。タクシーに乗るまでもない距離と思い歩いていると実に寺院の多い町である。堺市駅の文化センターの職員が祥雲寺のことを知らないのは当然と思われるくらい寺院が多く由緒書きの掲示のある寺院も多い。少林寺小学校と言うのも道中に在った。道が突き当たると左によれ道なりにさらに東に向かうといつの間にか南宗寺の東門に出ていた。南宗寺は京都大徳寺派の禅宗の寺で千利休と縁がある寺で沢庵和尚も関係している寺である。堺の人達は建物を造ることが好きだったようで普請道楽ともいえたがさすがに大阪夏の陣のあと堺の経済の没落とともに精彩を欠いていった。しかし酒造の歴史を調べると酒や醤油の江戸への出荷地として栄えていたようである。夕方4時を過ぎていたので寺の中を見ることが出来ずそのまま出てさらに東に向かうと堀というくらいの土居川にぶつかる。サギの一種か鳥が土居川のところに一本足で立っていた。南宗寺の南は熊野街道であったらしく堺の五街道の掲示板を見て熊野街道と思われる道を大阪に向かって歩く。アーケードのある山之内商店街に向かって歩いていると花屋と思うくらいに草花で飾ってある個人の住宅があった。近所でも有名な家でしょう。昔は繁盛していたと思われる商店街を出ると竹内街道にぶつかり街道を南海電鉄堺東駅に向かって歩く。今でも堺市の中心らしく公共施設が道沿いに多い。竹内街道と長尾街道はともに奈良に向かっているがどちらかと言えば沢庵漬の樽に縁がありそうなのは竹内街道沿いと見ている。それは奈良の春日大社・興福寺の酒造から見て日本で始めて清酒が奈良で造られ、その清酒造りの過程で米糠が発生し、清酒造りの廃棄物かまたは輸送容器の樽の再利用で沢庵漬が考案されたと思う。沢庵和尚が堺から奈良の間の人から沢庵漬をもらい和尚が工夫普及させたと思われる。