年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

郵船の常陸丸

2008年02月26日 | 福神漬
郵船の常陸丸
常陸丸は2度も海難に遭って、初代の船長も2代目の船長も自決したという船である。初代は日露戦争のおり、玄界灘においてロシアの攻撃を受け1400名死亡した。九段にある靖国神社には大鳥居のすぐそばに大きな殉難碑がある。初代常陸丸は靖国神社の合祀問題を引き起こしている。それは船長がイギリス人であったためである。果たしてイギリス人3名は靖国神社に合祀されいるのでしょうか。
 2代目もインド洋において沈没している。行方不明になった大正6年秋から大正7年2月までは常陸丸に掛けてあった戦時海上保険制度の不備で、日本郵船・東京海上保険・日本政府での保険金支払いの証明で論争していたようである。大正7年3月に常陸丸の遭難状況がわかると論争が終わってしまったが郵船の幹部には実に印象の強かった事件であった。大正7年2月の常陸丸捜索隊が見つけた品々の中で壊れたドアと『酒悦の福神漬』の木箱が拿捕でなく沈没したことを確信しただろう。
出所 神戸大学電子図書館にて 『常陸丸』で検索
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする