荒川区の郷土資料のある荒川区ふるさと文化館へいった。都営浅草線で浅草駅で降りて、荒川区役所行きの都バスに乘り、千住大橋バス停で降りる。降りたところに大きな神社があって、その後ろに文化館がある。荒川くふるさと文化館には図書館が併設されている。ここには荒川区の郷土資料があって、荒川区の高齢者と小学生は無料のようだ。その他は100円。この百円の価値はあるか無いかは、ネット評価で点数の低い理由に100円がある。多くの都内の郷土資料館を見ていると、この百円は展示内容の質から見ると高い。もし入場人数のデ―タがあれば人件費どころか光熱費の出ないほどの閑散風景があった。併設の図書館へ行くと50人ほどの高齢者がエアコンに効いている室内で本を読んでいる姿が見えた。ここは無料。
南千住1丁目には圓通寺という寺院に彰義隊兵士の遺骨を納めた墓があって、さらに三河屋幸三郎の墓もある。この人は圓通寺の住職と共に無人となり荒廃した上野の山に放置されていた彰義隊兵士の遺骨を荼毘にした。福神漬を調べていくと資料に出て来る頻度が多い人でもある。
図書館で回向院の資料を探したが、荒川区中央図書館での本より見つからなかった。ここを出てJR南千住駅に向かう。
回向院の本を読んでいたら、鉄道の線路で広大な墓地が分断され、今の位置に寺院が残った。さらに回向院の前の道路工事で寺院の改築、墓地の再編があったようだ。回向院の入り口にたどり着くと吉展地蔵が目に入る。これは戦後に起きた幼児誘拐事件で下町の記憶遺産でもある。圓通寺にも吉展地蔵尊がある。この理由は誘拐後すぐに殺害し圓通寺の墓に放棄したということから来ている。
回向院は昼前と言うことで、ほぼ人の気配はないので入り口の説明版を読んで、入るというか目に付いた墓を見に行く。きっちりと観光客用の墓と個人の墓と分離されている。二列の通路で右手に大きな相馬大作の慰霊碑がある。多くの人の賛同者名があって、驚く。鶯亭金升日記に同僚の記者より何か聞いていた事実があって、書きたくない雰囲気を感じていて、自分が気になっていた。岩手県の歴史で相馬大作が江戸市中で鶯亭金升の祖父に当たる火付盗賊改の職にあった長井五右衛門の配下が捕まえ、断罪した。この事件から回向院が政治犯の埋葬場所となったという。20万人以上と言われる、小伝馬町牢獄で獄死、処刑された人の埋葬場所という。
自分が高野長英逃亡事件の資料がある回向院の過去帳と見ているがどうなのだろうか。後は新島村にあるのだろうか。そして高野長英の逃亡を助けた内田弥太郎がなぜ罪に問われなかったのか。
これは自分の想像だが嘉永3年春、長崎からオランダ使節団が江戸参府となり、幕府にオランダの軍事に関する書物を贈呈した。この翻訳を通詞の立石得十郎に任せたが、翻訳の質が良くなく、苦労していた。軍事の用語は医学用語と似ていて、平時の言葉と違い、発音のまま訳すと中身が不明となる。回向院の腑分けで蘭学事始めのエピソ-ドが解かる。顔の中心でうずたかい。これが鼻ということ。軍事の翻訳は当時のオランダ語の一人者であった高野長英と思っていたが逃亡から時間が経って、死亡したと思われていた。ところが翻訳後に転々として転記したオランダ軍事書の翻訳が素晴らしいため、高野の生存説がうまれ、「尚歯会」(しょうしかい:知識人の勉強会)で仲間として活動していた下曽根金三郎と内田弥太郎に高野を探すように依頼したと思われる。そこから勝海舟の所に嘉永3年9月か10月に高野長英が訪問した記録があって高野の贈呈した本が国会図書館にあって、本物のようだ。ここから高野の役割はキリシタン屋敷の幽閉したシドッチの様に捕縛し、幽閉し翻訳の仕事をさせる幕閣上層部に意向があったとおもう。しかしこの意向が南町奉行にもれ、江戸市中に生きていてはメンツが保てない南町奉行配下の役人たちによって暴行されて死去となった。この理由から内田弥太郎は逃亡援助の罪を逃れ釈放され、さらに表向き流罪となり新島に行った宮城(宮野)信四郎を金銭の援助をして、流人生活を生き残り、明治になって釈放された。
南千住1丁目には圓通寺という寺院に彰義隊兵士の遺骨を納めた墓があって、さらに三河屋幸三郎の墓もある。この人は圓通寺の住職と共に無人となり荒廃した上野の山に放置されていた彰義隊兵士の遺骨を荼毘にした。福神漬を調べていくと資料に出て来る頻度が多い人でもある。
図書館で回向院の資料を探したが、荒川区中央図書館での本より見つからなかった。ここを出てJR南千住駅に向かう。
回向院の本を読んでいたら、鉄道の線路で広大な墓地が分断され、今の位置に寺院が残った。さらに回向院の前の道路工事で寺院の改築、墓地の再編があったようだ。回向院の入り口にたどり着くと吉展地蔵が目に入る。これは戦後に起きた幼児誘拐事件で下町の記憶遺産でもある。圓通寺にも吉展地蔵尊がある。この理由は誘拐後すぐに殺害し圓通寺の墓に放棄したということから来ている。
回向院は昼前と言うことで、ほぼ人の気配はないので入り口の説明版を読んで、入るというか目に付いた墓を見に行く。きっちりと観光客用の墓と個人の墓と分離されている。二列の通路で右手に大きな相馬大作の慰霊碑がある。多くの人の賛同者名があって、驚く。鶯亭金升日記に同僚の記者より何か聞いていた事実があって、書きたくない雰囲気を感じていて、自分が気になっていた。岩手県の歴史で相馬大作が江戸市中で鶯亭金升の祖父に当たる火付盗賊改の職にあった長井五右衛門の配下が捕まえ、断罪した。この事件から回向院が政治犯の埋葬場所となったという。20万人以上と言われる、小伝馬町牢獄で獄死、処刑された人の埋葬場所という。
自分が高野長英逃亡事件の資料がある回向院の過去帳と見ているがどうなのだろうか。後は新島村にあるのだろうか。そして高野長英の逃亡を助けた内田弥太郎がなぜ罪に問われなかったのか。
これは自分の想像だが嘉永3年春、長崎からオランダ使節団が江戸参府となり、幕府にオランダの軍事に関する書物を贈呈した。この翻訳を通詞の立石得十郎に任せたが、翻訳の質が良くなく、苦労していた。軍事の用語は医学用語と似ていて、平時の言葉と違い、発音のまま訳すと中身が不明となる。回向院の腑分けで蘭学事始めのエピソ-ドが解かる。顔の中心でうずたかい。これが鼻ということ。軍事の翻訳は当時のオランダ語の一人者であった高野長英と思っていたが逃亡から時間が経って、死亡したと思われていた。ところが翻訳後に転々として転記したオランダ軍事書の翻訳が素晴らしいため、高野の生存説がうまれ、「尚歯会」(しょうしかい:知識人の勉強会)で仲間として活動していた下曽根金三郎と内田弥太郎に高野を探すように依頼したと思われる。そこから勝海舟の所に嘉永3年9月か10月に高野長英が訪問した記録があって高野の贈呈した本が国会図書館にあって、本物のようだ。ここから高野の役割はキリシタン屋敷の幽閉したシドッチの様に捕縛し、幽閉し翻訳の仕事をさせる幕閣上層部に意向があったとおもう。しかしこの意向が南町奉行にもれ、江戸市中に生きていてはメンツが保てない南町奉行配下の役人たちによって暴行されて死去となった。この理由から内田弥太郎は逃亡援助の罪を逃れ釈放され、さらに表向き流罪となり新島に行った宮城(宮野)信四郎を金銭の援助をして、流人生活を生き残り、明治になって釈放された。