年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

戦後80年の今年はGHQによる日本占領の80年でもある

2025年01月13日 | 宅老のグチ
この頃立教学院(大学)の歴史本を読んでいる。戦死した叔父の調査の行き詰まりで気分転換を図るための調査でもある。
昭和20年8月の敗戦の後、GHQの占領政策の中で、元立教学院の英語教師ポール・ラッシュを教育においての戦争犯罪を追及する仕事に任命した。ポールは日本聖公会から派遣された人だった。
彼は立教学院で戦前には英語の教師をしていて、日本が開戦となってアメリカに送り返され、米国内で軍人のための日本語教育を行っていた。
「清里の父 ポール・ラッシュ伝」
この本を図書館で読んでいて、戦後に彼が立教学院に対して、GHQによる直接の命令で11人の立教関係者が追放された。立教関係者以外の教職追放はGHQの直接指示した追放令ではないという。教職の追放する組織によって、教育関係者の追放が決まったという。この遅れた教育関係者の追放は、特に師範学校の戦後史に混乱ぶりがみられる。8月15日まで鬼畜米英と生徒指導していて、敗戦となるとすぐに民主主義を唱える変節指導者がいて、責任を上層部の命令と言って、地位に留まろうとした様子が見える。
 そこから見えるのはポール・ラッシュと言う人の立教への想いと、同時に皇国日本の軍と対峙しなければならない立教大学の経営幹部の苦悩を理解させることが出来なかった。
 御真影の問題、派遣された軍事教官との調整は戦時の立教大学幹部の苦悩が見える。今の出版されたポール・ラッシュの伝記の記述は戦後史の上から書かれていて、日本の戦争責任問題がソ連の台頭によって中途半端の感がある。そこにGHQの民主化という御旗によって動いていた左翼勢力が弾圧されるようになっていった。
 ポール・ラッシュの評伝でアメリカの正義という日本では馴染みのない言葉が出て来る。これを立教学院の事例でそもそもアメリカの聖公会というキリスト教組織が築地の居留地で布教と病院を作ったことから始まる。いま中央区の聖路加病院の敷地内に立教学院の建学記念碑がある。アメリカの寄付金で出来た学校が配属将校の指示で文学部と経済学部が閉鎖され、それによってクリスチャンの教師が失業し、代わりに理学・工学の学部が出来た。チャペルが閉鎖され、防空壕の素材として壊された。この状態で戦争が終わってもラッシュが立教学園を視察した際に、復旧する意欲が学院幹部に見られなかった。
 戦後の立教は学校の再建と共に財政の問題も抱えていた。極度の戦後のインフレは戦前の30万ドルの基金の価値が2千ドルの価値となってしまった。
 多くの苦学生が立教の米国人教師の家で食をもらい飢えをしのいでいる様子が見える。従って一時とは言え立教の教師に戻った縣康は食の確保に苦労したと思われる。この時の話が今でも親族に伝わるのは何か印象的だったと思われる。いつ頃の話か聞いてみないと判らないが、GHQという言葉が叔父の遺品と遺書の処分に関係していると自分は思っている。何しろ鬼畜米英と信じていた農民が近所の南桜井の精工舎江戸川工場に進駐していた米軍兵士がウロウロしていてさらにGHQによる直接命令で教職追放された人物の食料支援をしていたと思われたら危険と勘違いもあるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする