正月の休みで、家人の入院ともあって、行事が中止となり、さらに感染症の危険ということで外出自粛となった。それでも脳内運動でネット検索をしている内に、過去の親族の伝聞の検証をしてみた。
厩橋の親族に戦時中の話を聞いていた時に、戦後に漬物業を廃業したのはGHQにマークされたという話だった。自分は叔父が特攻死し、当時としては米軍には多大な損害を米軍記録でも検証できるのでそんな腹いせかと思っていた。しかし過去のことより、戦犯を追及していた時代でそんなことはあり得ないので、叔父の実家附近のGHQの動きを調べていて、今の東武ア―バンパ-クライン野田線南桜井駅付近の戦後の様子を春日部市史庄和地区編近現代史で調べてみた。そこでは昭和22年9月のカスリ-ン台風後の南桜井付近のコメの供出割り当てが他の埼玉県の農業地域より圧倒的に少ない様子が見えていた。そこで米軍の埼玉県ライアン少佐が小学校に付近の農民を集め、埼玉県の名誉のためコメの供出割り当ての達成の協力を要請し、従わないと貯蔵している食料の家探しをすると脅した。この結果は翌年に埼玉県のコメは割り当てを達成した。後日談で庄和地域の人はヤミで得た金銭で他の台風被害の少ない地域から米等の供出用食料を購入し、供出したという。庄和地域は東武線と水運があって、無動力でも安易に東京の下町にヤミ物資を運搬できる。ヤミ物資の検問を避けるために、肥え桶や空き醤油樽を積み込んで検問を逃れたと想像できる。今の日本橋の国分は江戸時代に大名相手の商売から、茨城県土浦市で醤油醸造を始め、江戸に供給した。そこで江戸からの帰り荷に空き樽を積んでいたのが、次第に空き樽の流通が本業となった。その様な過去の歴史があったから江戸川の船に醤油樽が積んでいても不思議ではない。。
紀伊国屋文左衛門のミカン話に似ている。闇市に食を供給する時期で東京市民はタケノコ生活(手持ちの衣服と物々交換)をしていた。東京で配給だけでは生きてゆけない婦女子を比較的に空襲被害のない農村地域に食と住居を求め、血縁・地縁とかのつてで庄和地域には多くの都会の住民が増えた。そこに戦災孤児、大陸等からの引揚者が流入していて、日本の戦後の縮図のような街だった。
そんな小さな町に戦後まもなく埼玉米軍から兵士が数十名ほど進駐してきた。その理由が南桜井駅前の時計の精工舎江戸川工場に間借りしていた、赤羽の兵器工場を接収するためだった。兵器工場が稼働したのが終戦間際で、米軍には軍需工場と知られず、終戦時にも無傷の工場が残った。精工舎の工場福祉は良く、病院・宿舎も無傷で残っていた。
そんな街に微かな縁をたどって・縣(あがた)さんと言う人が南桜井に疎開してきた。東京に比べて食料は良かった。味噌・醬油・野菜・卵は自給で醤油に関しては隣接の野田市の知識があって、さらにお茶の焙煎設備もあった。
栗原家の戦後で時々縣さんの話が出て来る。戸籍謄本に載っていないし、血縁ではないが何か支援しないといけないようだった。そこから来る話から栗原家にとって常識人だった親族の厩橋の漬物業者だった。ここに自分の父は勤めていて養子となり出ていった。厩橋の親族と縣さんとの縁があった。詳細は不明だが縣康さんの親族の人が厩橋にいた。正月の暇つぶし検索で縣康を調べる。
縣康 ウィキペディア(Wikipedia)にも載っている人物だった。そこで調べると戦後にGHQによって立教関係者が11名ほど公職追放された。1945年10月24日である。この11名の追放時期と南桜井駅の精工舎工場に米軍が進駐した時期とほぼ重なる。
南桜井で疎開していた縣さんのGHQと叔父の特攻話は無関係だが、情報の少ない時代はあわてて叔父の遺品遺書を処分したかもしれないと正月に思った。そこで正月明け図書館へ行って調べてみる。
立教学院百二十五年史 どんな戦後史があるのだろうか。立教の公職追放史は比較的詳しく縣さんの証言がある。
開戦後のキリスト教教育と皇国史観とが立教大学でどう対応したか気になる。
厩橋の親族に戦時中の話を聞いていた時に、戦後に漬物業を廃業したのはGHQにマークされたという話だった。自分は叔父が特攻死し、当時としては米軍には多大な損害を米軍記録でも検証できるのでそんな腹いせかと思っていた。しかし過去のことより、戦犯を追及していた時代でそんなことはあり得ないので、叔父の実家附近のGHQの動きを調べていて、今の東武ア―バンパ-クライン野田線南桜井駅付近の戦後の様子を春日部市史庄和地区編近現代史で調べてみた。そこでは昭和22年9月のカスリ-ン台風後の南桜井付近のコメの供出割り当てが他の埼玉県の農業地域より圧倒的に少ない様子が見えていた。そこで米軍の埼玉県ライアン少佐が小学校に付近の農民を集め、埼玉県の名誉のためコメの供出割り当ての達成の協力を要請し、従わないと貯蔵している食料の家探しをすると脅した。この結果は翌年に埼玉県のコメは割り当てを達成した。後日談で庄和地域の人はヤミで得た金銭で他の台風被害の少ない地域から米等の供出用食料を購入し、供出したという。庄和地域は東武線と水運があって、無動力でも安易に東京の下町にヤミ物資を運搬できる。ヤミ物資の検問を避けるために、肥え桶や空き醤油樽を積み込んで検問を逃れたと想像できる。今の日本橋の国分は江戸時代に大名相手の商売から、茨城県土浦市で醤油醸造を始め、江戸に供給した。そこで江戸からの帰り荷に空き樽を積んでいたのが、次第に空き樽の流通が本業となった。その様な過去の歴史があったから江戸川の船に醤油樽が積んでいても不思議ではない。。
紀伊国屋文左衛門のミカン話に似ている。闇市に食を供給する時期で東京市民はタケノコ生活(手持ちの衣服と物々交換)をしていた。東京で配給だけでは生きてゆけない婦女子を比較的に空襲被害のない農村地域に食と住居を求め、血縁・地縁とかのつてで庄和地域には多くの都会の住民が増えた。そこに戦災孤児、大陸等からの引揚者が流入していて、日本の戦後の縮図のような街だった。
そんな小さな町に戦後まもなく埼玉米軍から兵士が数十名ほど進駐してきた。その理由が南桜井駅前の時計の精工舎江戸川工場に間借りしていた、赤羽の兵器工場を接収するためだった。兵器工場が稼働したのが終戦間際で、米軍には軍需工場と知られず、終戦時にも無傷の工場が残った。精工舎の工場福祉は良く、病院・宿舎も無傷で残っていた。
そんな街に微かな縁をたどって・縣(あがた)さんと言う人が南桜井に疎開してきた。東京に比べて食料は良かった。味噌・醬油・野菜・卵は自給で醤油に関しては隣接の野田市の知識があって、さらにお茶の焙煎設備もあった。
栗原家の戦後で時々縣さんの話が出て来る。戸籍謄本に載っていないし、血縁ではないが何か支援しないといけないようだった。そこから来る話から栗原家にとって常識人だった親族の厩橋の漬物業者だった。ここに自分の父は勤めていて養子となり出ていった。厩橋の親族と縣さんとの縁があった。詳細は不明だが縣康さんの親族の人が厩橋にいた。正月の暇つぶし検索で縣康を調べる。
縣康 ウィキペディア(Wikipedia)にも載っている人物だった。そこで調べると戦後にGHQによって立教関係者が11名ほど公職追放された。1945年10月24日である。この11名の追放時期と南桜井駅の精工舎工場に米軍が進駐した時期とほぼ重なる。
南桜井で疎開していた縣さんのGHQと叔父の特攻話は無関係だが、情報の少ない時代はあわてて叔父の遺品遺書を処分したかもしれないと正月に思った。そこで正月明け図書館へ行って調べてみる。
立教学院百二十五年史 どんな戦後史があるのだろうか。立教の公職追放史は比較的詳しく縣さんの証言がある。
開戦後のキリスト教教育と皇国史観とが立教大学でどう対応したか気になる。