年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

愛知県安城市安祥公民館・安城市歴史博物館で

2024年11月27日 | 宅老のグチ
11月22日新幹線のこだまで三河安城駅で在来線に乗り換え安城駅からアンフォ-レという施設にある図書館で山崎延吉の本を眺め、安城市歴史博物館へ歩く。図書館の人は簡単に歩いて行っても行けると言って30分くらいと言われた。道は良いが土地カンが無く、迷い迷って小1時間で歴史博物館へ着くが、ここでも迷う。道路に歴史博物館の標識を見つけたが辿ってゆくと民家の道。思わずスマホで確認するとすぐそばだが塀に囲まれた。そこには安城南部小学校というのがあって、金曜日なのに小学生の姿と電気も点いていない。少子で廃校になったのかと一瞬思った。歴史博物館は小学校から見えていて、後から気がつくと駐車場の入り口から辿り着いたようだ。歴史博物館は安祥公民館が併設されていて、何か行事が行われていた。博物館へ入って、女性のボランティアガイドに山崎延吉の扱いを知りたいと言った。途中に縄文時代からの地域の土地の様子の展示を見ていて、明治用水の写真をみて、これはせき止めのダムの底が抜けた事件の用水ですかと尋ねると、知ってましたかという顔の反応があった。東京では一時の騒動だが愛知の安城地区は大変だったようだ。
 そんな様子から安城市付近は今は明治用水の広報に力を入れていて、山崎延吉はどちらかと言うと農業振興の功績と負の功績の評価があって、今は調べに来る人が少ないと感じる。
 家に帰って染谷亮作と加藤完治の安城農林学校の様子を調べる。
染谷は明治34年新設される愛知県立安城農林学校に初代校長山崎延吉と共に働いた。同期の同僚の先生は熊谷八十三(ワシントンのサクラの育成に携わることで知られる)あと一人の先生は後藤という名であった。安城農林学校が未完成の状況で開校し、実習農場の不備で教員・生徒の土木事業でやっと4月末に竣工した。延べ人数は1100人という。そこから実習農場となるのだがトマト栽培が記憶に残る。この件で森永製菓中京工場の社史を調べてみたい。
 明治37年染谷亮作は安城農林学校を退職し東京西ヶ原の農事試験場に技師として勤め,週末に帰郷し千葉県川間村の実家を手伝うことをしていました。明治39年に亮作の父が死去すると千葉県川間村に戻り家を継ぐことになる。
 加藤完治が山崎延吉の安城農林学校に赴任したのが1913年(大正2年)で染谷亮作とは安城農林学校では重ならない。
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