東京下町・新小岩駅の不動産屋二代目のつぶやき

東京の下町・葛飾区新小岩で今年創業49年を迎えました不動産屋の二代目が気ままに書き綴った独り言ブログです。ブツブツ・・・

フジヤマのトビウオ

2009年08月07日 09時37分25秒 | ニュースの話
先日開催されていた世界水泳選手権開催地のローマで死去した古橋広之進(80歳)日本水泳連盟名誉会長。戦後の混乱期に水泳選手として活躍して「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた国民的英雄で、日本オリンピック委員会(JOC)会長などスポーツ界の要職を歴任した。

1948年に日本が参加できなかったロンドン五輪と同時期に行われた日本選手権の400メートル自由形と1500メートル自由形で世界記録をマークし、同五輪での優勝タイムを大きく上回った。翌年の全米選手権(ロサンゼルス)でも世界記録を出し、米国メディアから「フジヤマのトビウオ」と称賛されて日本のファンを熱狂させ、五輪では1952年ヘルシンキ大会に初出場し、日本選手団主将を務めた。しかし1950年の南米遠征で体調を崩した影響で、400メートル自由形で8位にとどまった。現役時代に世界記録を更新した回数は33度といわれた。

引退後は日大教授などを務めるかたわら、1985年に日本水連会長に就任し、低迷していた水泳界の競技力向上に努めた。1988年ソウル五輪で鈴木大地、1992年バルセロナ五輪で岩崎恭子が優勝するなど「水泳ニッポン」の立て直しに尽力。1990年にJOC会長に就き、1999年に退任するまでの5期10年間に抜群の知名度と調整力でスポーツ界に貢献した。

私は昔「トビウオの泳ぎ」を実際に見たことがある。私が小学生の頃、学校のプールが新しく出来、そのお披露目に当時の校長先生と親交のあった古橋氏が泳ぎを披露してくれた。残念ながらその当時、「トビウオ」の経歴も知らなかった小学生の私はただ「泳ぎの上手いおっちゃんだな~」程度の失礼な印象しかなかった。

これだけ世界記録を作ったのにも関わらず、金メダルには縁が無かった古橋氏だったが、5期10年間の長期に渡りJOC会長に就任していた経歴を見れば「トビウオ」にどれだけ人望があった事は一目瞭然である。合掌・・・

有限会社やな瀬不動産

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1983年8月6日~7日・17歳・夏(後編)

2009年08月06日 09時23分49秒 | 街の話

会場ボランティアさんに誘導され、整理入場の上、斜面に同じテントで過ごした人たちと腰を下ろす。会場後方を見るとファンが続々と入場して来るのが見える。24000人で埋め尽くされた会場に陽が落ち、1983年8月6日19時、夜明けまで続くオールナイトコンサートがいよいよ開演した。

ペース配分を考える事も無く、熱気と興奮が入り混じった会場は最初からボルテージは最高潮だった。しかし慣れない環境で疲れた体は日付が変わる頃、眠気で何度も何度も「気を失った」。ハッと目覚めてはステージを観るの繰り返しだった。食事はどうしたのだろうか?水分はどうしたのだろうか?細部の記憶が全くないのだが、とにかく蒸し暑かった事はよく覚えている。

そして阿蘇山が朝日に染まる頃、1983年8月7日5時エンディングを迎えた。開演から10時間。みんなで万歳三唱を繰り返していると、涙を流している自分に気が付いた。達成感とお祭りが終わってしまった寂しさが混じり合って自然と溢れる涙。

共に過ごした仲間たちとはキャンプ場で別れ、私は来た道をひとりで引き返す。博多駅界隈でお土産を購入し、四日間の汚れを携えたまま16:35博多発ひかり30号新幹線に乗り込んだ。殆ど寝ていなかったので23:20に東京に着くまで泥のように寝ていた。

今となってはもう決して出来ない強行軍であるが、あれから26年が経過した今でも、車窓からの見えにくかった闇夜の風景も、若さ溢れるキャンプ場での笑顔も、清々しいほど綺麗だった朝日の色も、成し遂げて少し大人になった誇らしい気分も鮮明に覚えている。私にとってひとつひとつが熱い熱~い思い出たちである。

だから子供達にはひとり旅を薦めている。

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1983年8月5日~6日・17歳・夏(中編)

2009年08月05日 09時34分42秒 | 街の話

熊本の暑い日差しに車窓から見える木々も青々としている。そしてようやく阿蘇駅に降り立つ。目の前には阿蘇山が大きくそびえ立つ。駅前の予約していた民宿に入る。相部屋にはすでに先客の男性大学生さんが居た。彼ももちろんライブ参加者なので、当然すぐに意気投合する。そのうち翌晩の開演まで抑え切れなくなったのか「会場を視察する」事になった。

坂道を登る登る登る・・・約30分でようやく会場である「熊本県阿蘇郡坊中キャンプ場」へと到着した。キャンプ場と言うだけあり、すでに至る所にテントが設営させており、焚き火の煙があちこちから立ち昇っている。何だか羨ましい光景である。

するとキャンプ場スタッフさんが何か叫んでいる。よく聞くと「あと○名、空きがありますよぉ~」。つまりまだこの羨ましい光景に入れると言う事だ。後先考えずに二人で手を上げていた。すぐさま下山して宿にキャンセルをして、荷物を持ってまた登頂した。10名ほど入れるテントに見知らぬ九州在住の塾の先生夫妻と友人たち、名古屋の学生さんたち、相部屋の大学生さんと私で夜を共に過ごすことになった。

ここでもすぐに意気投合。同じ趣味を持つ人間たちは話が早いものだ。食材調達に夫妻の車で再び下山し、みんなで簡単な食事を作った。満天の星空の下で色々な話をしていると、コンサートスタッフさんからキャンプファイヤーのお誘いが掛かった。

総勢100名ぐらいのキャンパーたちが大きな円を作ると、松明(たいまつ)を持って「明日の主役」が登場した。夢のようなサプライズライブだ。点火の後に彼の奏でるギターと共にみんなで輪になって大声で歌った。私は隣の女子大生の肩に回した手が気になって仕方なかった。17歳だもん・・・



興奮とデコボコした床になかなか寝付けないままテントの夜が明けると、いよいよライブ当日。しかし朝から雨だった。二日間の慣れぬ環境で体のピークは最頂点になっていた。暑い熊本で風呂にも入れない状況。座りながら土砂降りの雨を見ながらついウトウトしてしまう。結局その日は夕方の入場までの間、何をしていたのか全く記憶にない。(つづく)

有限会社やな瀬不動産


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1983年8月4日~5日・17歳・夏(前編)

2009年08月04日 09時33分56秒 | 街の話

今からちょうど26年前の8月4日、私はひとり東京駅に居た。17歳の夏である。

12万円を目標金額として、その年の1月からアルバイトを続けていた。部活があるので定期的には出来なかったので、冬休みと春休みの短期間に引越バイトと、不定期に入る日曜日の清掃バイト、お年玉、お小遣いもすべて貯金した。

目的は九州・阿蘇で開催されるオールナイトコンサートに出掛ける為である。兄の影響で聴き始め、当時夢中になっていたアーティストだった。ただ当時高校二年生の私の周りには彼を好きな仲間もおらず、色々と考えた結果、「ならばひとりで行けばいいじゃん」となった。

こうなればすべて自分で手配してみようと宿から交通機関の手配から各種確認まですべて自分ひとりでやってみた。おかげで時刻表も読めるようになった。前売りチケットを購入する為に夜の新宿で並んだりもした。

すべての準備が完了し、いよいよ出発の日を迎えた。ライブ開催の前々日1983年8月4日夕方ひとり東京駅のプラットホームに立ち、今年廃線になった17時発東京発・熊本行きブルートレインみずほ号に乗り込んだ。離れて行く東京の景色が結構心細かったことを覚えている。

初めてのひとり旅を祝して、味も分からないのに「泡付きジュース」で乾杯したが、ひと口飲んで、半分以上は残した・・・寝台車は三段になっていて、私は真ん中の段。車窓を眺めながら準備しておいたウォークマンの再生ボタンを押す。ただベッドから車窓が非常に見にくく、結局早々と就寝した。

翌朝、ベッドはベンチシートに戻され、対面式の席に見知らぬ六人が座る。ひとりの私にみなさん興味津津であれこれ質問される。隣のおばさまがお弁当を買ってくれた。11時23分熊本駅に到着した。先ほどのおばさまと一緒に水前寺成趣園(通称:水前寺公園)までお供して、豊肥本線水前寺駅で別れた。目指す阿蘇駅まではあと約80分である。(つづく)

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NHKの存在価値

2009年08月03日 09時13分34秒 | テレビとラジオの話
二年後に迫った地デジの完全移行。当社でも今年に入り本格的に管理物件への導入に向けて動き出している。ケーブルもしくはアンテナ設置の可能かどうかを事前調査依頼し、取りまとめて、提案し、契約締結・・・とその作業はまるで街の電気屋さんのようである。

導入した後に入居者さんに確認すると、地デジテレビ所有の入居者はもちろんの事、アナログテレビ所有の入居者さんにも関わらず映りが良くなり、またそれまで見れなかった地方テレビも映るようになったと喜んで頂いた。

特にこのエリアは場所によりNHKの映りが悪いのだが、それすらよく見えるようになったらしい。他のチャンネルならば結構クレームが来るだろうに、今まであまり苦情が来なかったNHKの存在価値とは・・・

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家路

2009年08月02日 09時38分05秒 | 音楽の話
以前の「真夜中のダンディ」のように、以前から知っている曲にも関わらず、改めて聞き直して、さらに気に入ってしまうパターンが最近少なくない。
今回は浜田省吾の「家路」と言う曲である。一部ファンからは熱烈な支持を得ている曲だそうだ。
この曲は1980年発表のアルバム「HOME BOUND」に収録されていたのだが、私は2006年8月に発表された「The Best of Shogo Hamada vol.2」で初めて聞いた。

悲しみ果てしなく 風は夜毎冷たく
人は去り人は来る
でも気付けば 道標もない道に一人

そして夜が明けたら また生きてくために
生活を背負って歩き出す
疲れた体 次第に何も聞こえなくなる 感じなくなる だけど

どんなに遠くてもたどり着いてみせる
石のような孤独を道連れに 空とこの道 出会う場所へ

手に入れた形あるもの やがて失うのに
人はそれを夢と名付け 迷いの中さまよう

恐らく発表当時14歳の私が聴いても何も思わなかったであろう。この歳で聴いたからこそ、感慨深く思える曲である。そう考えると歳を重ねる事もそう悪くはないものだ。

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親?餌?

2009年08月01日 07時27分31秒 | 美味しい話

新聞にライオンの赤ちゃんを飼育する女性の話が掲載されていた。

その中で「いつまで一緒にいられるのか?」の質問に「三ヶ月です」と答えた彼女は続けて

「それ以上大きくなると、親だか餌だか分からなくなっちゃうんです」との事・・・

ひゃぁ~



ライオンの赤ちゃんはどんなに小さくて可愛いくても決して「猫」ではない事を認識するエピソードである。

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