「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「盆前恒例行事」

2021年08月10日 | つれづれ噺

               
                      年に一度の恒例行事、墓石磨き・掃除

連日の灼けつくような暑さでは、いくら日の暮れ時分の作業とは言え、なかなか腰が上がらなかった。待望のひと雨が来て、いくばくかの涼しさをもたらしてふと気が付けばお盆が目の前に迫っている。「そうだ、お墓掃除に行かなければ」。今夕やっと重い腰を上げて、バケツ2杯の水と墓石磨きグッズ、草取り用かいかきなど一式を積み込み、クルマで20分の墓地に走った。

夕まぐれの血に飢えたやぶ蚊と闘いながら1時間あまり汗を流す。誰が喜んでくれるわけでもないお墓掃除であるが、先祖が眠り両親のお骨が鎮座し、いずれはこの身の永遠の棲み処となるであろう場所。磨き上げ草取りをしてホッと一息。これで安堵してお盆の墓参りが堂々と出来るというもの。
ところでこの例年恒例行事があと何回、何年私たち夫婦でできるのだろう。そういった墓守が出来なくなったらいったいどうなるんじゃろう。

特に昨年あたりからこの問題が妙に気になり始めている。そのために、娘と息子をつくったわけでは決してないが、当人たちの生活に支障を来してまでお墓を守れとは言いにくい。お墓問題も終活のひとつであり、断捨離の対象と考えなければいけないのだろうか。
家系の存続などという大袈裟なことではなく、先祖代々のお墓を守るだけでさえ難しくなったとはねー。

菩提寺に永大供養をお願いして、墓じまいという選択も考えなけりゃならいのか。少し寂しいねー。
世の中全体が地球主義と呼ばれるグローバル社会の中を生き抜くには、個の尊重が少し薄れてしまうのも致し方ないところか。いいのかそうでないのか、よくわからないねー。
分かっているのは、お墓掃除が恒例行事であり、その行事に併せて墓の行く末を悩む年間年間恒例行事の一つになってしまったことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横幅を広げる

一行の文字数を増やしたい