ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

最もうれしいのはしっかり今を生きているということがわかること、だが正反対の報せも届いてしまった…

2023-01-11 20:47:56 | 「育」業
今朝、2年前にかかわりのあった子が、その後もしっかり成長しているのがわかる情報があった。
何回かここで書いてきたが、「育」業を生業としてきた私にとって、最もうれしいのが、別れて以降しっかり今を生きているということがわかることである。
あの頃も自分なりの考えをしっかり持って行動していたその子が、着実に人生を前に進んでいるのがわかったのは、非常に大きい喜びであった。

ところが、今夕思いがけない電話がかかってきた。
去年、久しぶりに電話で声を聞いたT君の父君からであった。
「年賀状をいただいたけれども、今日が命日なので電話したのです」
という声だった。
えっ、えっ、えっ…???
今日が命日?
命日って、亡くなったってこと?
あのしっかりした体のT君が?
まさか?

彼は、しばらく私のFacebookを見て、めったに投稿しない私だったけれども、ことあるごとに、「いいね」のサインは押してくれていたのだった。
夏ごろまで間違いなく、反応してくれていたはずだった。
ただ、去年の12月の彼の誕生日に、「おめでとう」と投稿したが、私のそれにも他の人の投稿にも、何の反応もなかったことは確かだった。
どうしたかな?とは思ってはいた。
それが、…命日?

命日と言っても、もちろん今日ではなかったはずだ。
電話に、「命日とのことですが、いつ亡くなられたのですか?」
と聞くと、どうやら去年の夏だったらしい。
電話でもう少し話を聞きたかったが、父君もあまり語りたくないようで、話の終わりを急いでいるのが感じられ、とても突っ込んでは聞けなかった。

11か月前に、23、24年ぶりに話ができて、しかも私の誕生日に花束まで送ってくれたT君だった。
「自ら省みて縮(なお)くんば 一千万人といえども我いかん 」
という自分の生き様の信条を教えてくれた彼だったのに、いったいどうしたというのだろう?

50歳を生きるT君と話したのは、23,24年ぶり - ON  MY  WAY

T君。電話ではあったが、彼と話したのは、何年ぶりだろうか。たぶん、23,4年たっていると思う。その時会ったのは、彼らが20代後半の時で、同級会だったはず。その5年後くら...

goo blog

 


「育」業を生業としてきた私にとって、最もうれしいのが、別れて以降しっかり今を生きているのがわかるということ、と先ほど書いた。
今回のことは、その逆で、もっとも悲しいことである。
かかわってくれた教え子たちには、齢をとって年長な私より、誰一人早くこの世を去ってほしくないのだ。
このような悲しみを味わうのは、御免こうむりたい。

T君がどのように逝去したのかは、まだわからない。
だが、もうこの世にいないことは事実なのだ。
とても残念だ。
心から彼の冥福を祈りたい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「もういいかい まあだだよ」(小椋佳著:双葉社)を読む

2023-01-10 19:58:41 | 読む
2日前のブログに書いた番組を見て、小椋佳自身が、今まで生きてきて、現在どのようなことを考えて生きているのかということに興味を持った。
番組でも扱われてはいたが、もっと知りたいと思ったのだった。
そこでその日見つけたのが、そのブログにリンクしておいたネット上の記事だった。

もう少し知りたいなと思って調べてみると、著者名が小椋佳で、1冊の本が出版されていた。
その書名も、「もういいかい まあだだよ」という。
出版日は、2021年の12月25日。
あまり日がたっていないし、放送タイトルやアルバムタイトルと同じ「もういいかい」という言葉があるので、ちょうどよい本だと思った。

図書館で検索してみたら、その本があると知った。
ラッキーと思い、さっそく借りてきて読んだ。



本の帯には、
「昭和、平成、令和を共に駆け抜けてきた人に贈る 魂のラストメッセージ」
「稀代のシンガー・ソングライターが生涯をかけて見出した『生きる意味』とは?」
という言葉が並んでいた。



「共に駆け抜けてきた人に贈る」というところは、気に入った。

本書は、巻末に「語り下ろし」となっていたが、語り口調で書いてあるし、文字数も多くなく読みやすかった。
内容は、先日の番組同様に、生い立ちから出会った人たち、銀行での経験などが書かれていた。
さすがに、1時間半のテレビ番組よりも詳しく、まだ知らないエピソードも交えてあった。

ただ、私が知りたかったのは、今の彼の生き方や人生に対する考え方であった。
それは、本書の後半にちりばめられて書いてあった。

生きることは、むなしく苦しく意味もなく、孤独で寂しいもの。
僕の底止まりの感覚としてずっとあります。
「死んでしまうのがわかっているのに、なぜ生きていかなきゃならないのか」
そう問われたら、一種の諦観かもしれませんが、こう答えますね。
「生きていかなきゃいけないとも、思わないな」って。

世の中は
食うて糞(ほこ)して寝て起きて
さてその後は死ぬるばかりぞ


と、一休和尚の歌を出して、

生きるとはそれだけのことさ、という思いは、僕のなかにも常にあります。
あるがままに。
自然(じねん)のままに。
ビートルズの『レット・イット・ビー』にも通じますよね。


…生きることについて、「むなしく苦しく意味もなく、孤独で寂しいもの」とズバリと言い切っている。
そうでありながら、絶望しているわけではなく、非常にうまく力が抜けたとらえ方をしていることに、うなずいてしまう。
あるがままに、自然のままに物事をとらえて、力まずに生きる。
そうやって生きていくのは、私の中にある思いが活字として出ているような思いがする。


77年生きてきて、思うんです。
生きる意味なんて、なかったと。
生きることそのものが無意味だ、ということではありません。
「生まれつき与えられる意味」なんてものは、どこにもなかった。
生きる意味は、自分で創るしかないのです。
自分探しより、自分創りなのです。

僕の場合、みずから創り上げた「生きる意味」は、歌を創ることでした。
歌を創り尽くしました。
いい人生を味わい尽くしました。


そして、生きる意味については、これまたズバリ「生きる意味なんて、なかった」と答えを出している。
ただし、生きることそのものを無意味とは言っていない。
「生きる意味は、自分で創るしかない」…名言だよなあと思う。
やはり、生きる意味の答えを出すのは自分なのだ。
小椋佳は、歌を創ることが自分の生きる意味だった、と断言している。

さて、自分の場合は、どうだろう。
これだと自信を持って言えるだろうか?
自信をもって言えるものがあるだろうか?
そのあたりは、もう少し時間をかけて考えてみたいと思う。

いかにも、いつ命の終わりが来てもよいようなことや、実際に足腰が弱ってきていることを書いていながらも、小椋は、1年前からピアノを習い出したとか、野菜の栽培に楽しみを見出したとか、稽古場兼スタジオを造りたいとか、様々な創造活動に取り組んでいる。
その前向きな姿勢は、やっぱり素晴らしい。

小椋佳が自分は人生の初冬にいるというようなことを書いていたが、そうならば私は、今晩秋にいるのかもしれない。
初冬の人の言は、非常に示唆に富む。
自分も、創造的な活動の多い暮らしをしていきたいという思いが強まった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児」(鈴木義昭著;新評論)を読んで、その生涯を知る

2023-01-09 20:23:15 | 読む
新発田市には、こんな特徴のある建造物がある。



その名称は、



蕗谷虹児記念館。
1987年に開館し、新発田市出身の画家、蕗谷虹児の作品や資料等が展示されている。

蕗谷虹児と言えば、少女や若い女性を描いた挿絵画家として、知られている。
竹久夢二と並んで抒情的な画家として人気があったとも聞いていた。
そして、「♬金襴緞子の帯しめながら…」で始まる唱歌「花嫁人形」の詩の作者でもあり、それにまつわる花嫁の絵も、有名だ。



新発田市内の学校の多くには、額に入った「花嫁」の模造画が飾られている。
…そこまでは、知っている。


さて、ではどんな人だったのか。
どんな生涯を送った人だったのか。
そんなことは、まったく知らないでいた。

図書館で、こんな1冊を見つけた。



帯には、こんなことが書いてあった。

生誕120周年決定版評伝
オトメゴコロの永遠の理解者
夢二とフジタに見込まれ、魯迅と三島に愛された
大正・昭和大衆文化のスター蕗谷虹児。
その波瀾に満ちた生涯を丹念な取材で辿る本格評伝!


実際に読んでみて、「オトメゴコロの永遠の理解者」というのは、勝手につけた文言だなと思った。
「夢二とフジタに見込まれ、魯迅と三島に愛された」ことは、書いてあったが、そこを強調したいわけではない。

だが、「その波瀾に満ちた生涯を丹念な取材で辿」ったのは、間違いのないところだ。
著者が、豊富な資料を1つ1つ当たったり、虹児の人生にかかわりがあった人や場所を訪れ、のエピソードを拾い出したりしたものをもとに文章を構成していったのが分かった。
よく調べたものだなと感心した。
それでも、まだ件の魯迅の上海や、虹児若いときのパリには行けなかったことを口惜しく思っているようだが、新しく知ったことばかりだった。

蕗谷虹児の描いた女性には、ずっと早くして亡くなった母や、愛していた妻の面影があったということ。
生涯で2度結婚したこと。
1度めの女性とは、子どもを日本に残して夫婦でパリに渡ったこと。
パリで活躍していたときに、弟たちの借金苦で妻子を残して日本に帰ったこと。
その妻は、他に好きな相手を見つけ、日本に帰ると子どもを虹児に預けて別れたこと。
2度目の結婚でできた子どもたちの一人が、蕗谷虹児記念館の館長をしていること。
戦後は、絵本の挿絵や動画に関して関わっていたことがあったこと。
動画に関わったのは、ミステリー作家の赤川次郎氏の父から熱心に誘われたからだったということ。
そんな波乱万丈な様々なエピソードが、驚きであった。

そして、画家としてのたくさん描いたはずの作品は、パリで借金苦から売られたものが多く日本に持ち帰っていないから、まだどこかに眠っているものが多いはずだと書いてあった。
だから、記念館に大きな作品の数が少ないのか、と納得した。
没後、2015年にパリで「蕗谷虹児パリ展」が開催された際に、彼の評価が高まると共に、新たに作品が2つ見つかったりもしたそうだ。
今後まだ眠っている作品が見つかるかもしれない。

蕗谷虹児の記念館があることを知っていても、今まで一度しか入ったことはなかった。
だが、今回の読書で興味がわいてきた。
機会があったら、記念館を訪ねてみようと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「もういいかい 小椋佳ファイナル『歌創り50年 青春に帰る』」(NHKBSP)を見て知る彼の引退

2023-01-08 21:14:24 | ひと
今日、昼に何気なくテレビをつけていたら、午後1時からNHKのBSPで、「もういいかい 小椋佳ファイナル『歌創り50年 青春に帰る』」という番組が始まった。
これによると、小椋佳は、2年前にラストアルバムを制作し、コンサート活動もやめるとのことだった。
ただ、この感染症禍に陥ってしまったために、ラストコンサートが延び延びになってしまっているのだという。
だから、その代わりに、この番組で自分の人生に深くかかわった厳選した8曲を歌っておくことにしたのだということだった。

番組は、小椋佳が初めてのコンサートを開いたときの映像から始まって、彼の人生をたどりながら、8~9曲を歌う姿を見せていた。

彼が選んだ曲は、
○白い一日
○俺たちの旅
○木戸をあけて
○流されはしなかった
○時の始め、空の果て
○美しい暮らし
○愛燦燦
○ラピスラズリの涙
○もういいかい

彼が、レコードデビューすることになった話から、
生い立ちの話、
銀行員として働いていたときの逸話、
曲作りに関するエピソード、
2年前に制作されたラストアルバム録音の現場での様子
…などが織り込まれながら、番組の1時間半があっという間に過ぎた。

小椋佳の名前を初めて知ったのは、私が、高校時代だった。
小椋佳作詞、井上陽水作曲の「白い一日」のヒットによってだった。
高校生向けの雑誌に、見開きでその歌が紹介されていたのを覚えている。
その後、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットした後、空前の「小椋佳ブーム」が起こったのだった。
私が学生時代のころには、「めまい」や「揺れるまなざし」など自身のヒットや、中村雅俊に提供した「盆帰り」「俺たちの旅」など、彼の歌には引き付けられたものだった。
その魅力は、曲よりもやはり詞だった。
番組内でも扱っていたが、中村雅俊の「ただおまえがいい」では、曲名に「ただ」がついているとか「放物線の軌跡の上に」とか、歌詞ではなかなか使わない言葉を使っていた。
そんな詞に抒情的なものを感じ、引き付けられた歌が多くあったことは確かだ。
まあ、時々、妙に理屈っぽく感じられてしまったこともあるけれども…。

私の学生時代が終わってからも、「愛燦燦」や「愛しき日々」など他者に提供した楽曲がヒットした。
五木ひろしが熱唱する「山河」も、小椋佳の曲だった。
コンサートツアーもずっと続けてきていた彼だった。

その小椋佳も喜寿を迎え、自身の声が出なくなったことや、作品作りが難しくなったこと、肉体的な衰えなどから、来る1月18日の最終公演をもって大規模なツアーは終わりとするのだそうだ。
残念なのだが、これも人の人生なのだと思った。

番組の終わりの方で歌った、「もういいかい」という曲。
自分の人生や日本のことを歌っていた。

この国に生まれて この国に育って
随分長々生きたものだと 喜寿を超える歳に至り想う


という事実を歌いながら、

この国はそもそも いい加減が大事
神と仏とキリストないまぜ 平等理念に背く憲法
ふと思えば 信頼する政治家には 会わずじまい

という部分には、笑ってしまった。

でも、歌声を聴くとうまく声が出きらず、やはり今が引き際なのかなあ…と思った。
だけど、味わいのある声だな、惜しいなと思いもした。

それはともかく、もう少し最後のアルバムの曲を聴いてみたくなった。
アマゾンで小椋佳のアルバム「もういいかい」の注文をポチッと押してしまった。



この番組を見た後、今日、小椋佳の記事がネットに出ていた。
小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」 | デイリー新潮

小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」 | デイリー新潮

ポリコレが溢れ、“正しいこと”が跋扈(ばっこ)する令和の世。ゆえに健康こそ正義となるわけだが……。…

デイリー新潮

 

番組で聴いた内容も多かった。
まあ、ちょっと目を引こうとしている内容も前面に出ていたけれども。

吉田拓郎、小椋佳、財津和夫もそうだったかな…。
青春時代から今まで自分を支えてくれたシンガーたちが、次々と引退していくのは、やはりさびしさを感じざるを得ないなあ…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカーJ1アルビレックス新潟始動まであと5日、待ち遠しい!

2023-01-07 20:18:49 | アルビレックス新潟
 サッカーJ1アルビレックス新潟の活動開始日まで5日となった。
今日は、DF長谷川巧選手の契約更新のニュースがあった。
これで、あと1名、柏から新潟に期限付き移籍中のイッペイシノヅカの去就だけが未定だが、ほかは、契約更改終了となった。
今季のオフの最大の特徴は、ほとんどの選手が新潟と契約を更新して残ったということ。

なにしろ、昨季終了時点で28名の選手がいたのだが、退団したのはゲデス1人だけ。
FW矢村が、出場機会を求めてJ3からJ2に昇格した藤枝MYFCに期限付き移籍したが、ほかの25名は新潟にとどまることを選んだ。
これが何を意味するのかというと、J2で自分たちが高めてきた力を、みんなでJ1にぶつけてみたいということ。
ここまで磨いてきた技術と力が、J1にどの程度通用するのかを、チーム全体で確かめてみたいということだ。
そして、誰もがその気持ちになっているということだ。
やっぱり、それだけ信頼し合えるいいチームが出来上がったからこそ、J2優勝を果たせたのだろうし、この仲間と力を合わせてJ1で暴れてやるぞ、という思いを皆抱いているのだろう。

W杯では出番こそなかったが、オーストラリア代表に選ばれたDFトーマス・デン選手も昨日契約を更新した。
ワールドレベルなだけに、その動向が注目されたが、残留で公表されたコメントが、次のものだった。

アルビレックス新潟と契約更新でき、非常に嬉しいです。新潟のサッカーをとても楽しめていますし、素晴らしい思い出を新潟で創り上げてきました。
今シーズンはJ1でプレーできると思うと胸が高鳴り、ワクワクしています。
これからもクラブが成功し続けるよう全力を尽くします。
Arigato goziamasu!!

“goziamasu”は、“gozaimasu”で、本人か広報担当者の誤植だろう。
けれども、「素晴らしい思い出を新潟で創り上げてきました」というところに、去年ケガが完全に回復するまで待ったが、仲間との信頼関係を築き上げ、終盤の8試合出場で優勝に貢献できた喜びが伝わってくる。
J1の試合で活躍することによって、また新しい飛躍の道も開けることだろう。

新戦力は、J1のC大阪から新潟に復帰したDF新井と、J2町田のFW太田。
新井は、もともと3年前に新潟に入団した選手だった。
去年は徳島に期限付き移籍していたが、本間至恩をシャットアウトするなど、いい選手だ。
太田は、スピードのある選手で、キャリアハイの11得点・7アシストを記録した26歳。
15位と低迷した町田で、一人気を吐いた。
きっと、いい戦力になることだろう。

あとは、点の取れる外国人選手も欲しいところだが、これはまあ今後の発表に期待しよう。
もし、来なくても、十分に戦えると確信しているのだが。
それは、YOUTUBEの「ひらはたフットボールクラブ」で平畠啓史さんも、わざわざ特集を組んで言ってくれているので、それを信じたい。


数日後、アルビレックス新潟の活動が始まって、ローカル局を中心にまたたくさんのチームの情報が入ってくるのが楽しみだなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと遅いけど、初詣

2023-01-06 18:04:44 | お出かけ
今日も日中、突然吹雪になることもあったが、概して荒天は少なかった。
天気予報でも、くもりという予報だったから、当地で今日は雪の心配はなくてもいいようだ。

という天気の具合を見て、三が日を外して遅くなったが、ようやく初詣に出かけた。
ごちゃごちゃした人ごみの中へ出かけていくのが好きではないのが一番の理由であり、感染症禍だから遅くしたというのが二番目の理由で、三番目が冬の荒天というわけだ。



出かけた先は、新発田市の諏訪神社。
古くなったお札なども持って行き、そちらで焚き上げてもらうことにした。

手水場を通って、説明が書かれてある通りの作法でやろうとしたら、ひしゃくがなかった。
そうか。ないのは、感染症対策なのだな、と理解した。
ということで、右手、左手と洗い清めてから、左手に水を少しためて口をすすいだ。



正月三が日ならもっとにぎわっていたであろう神社だが、何人かが前後に同様に詣でている程度で、お参りしやすかった。



社に上って、賽銭を投げ入れ、「二礼、二拍手、一拝」で家内安全健康祈願。

終わってから、おみくじをひく。
今年は、珍しく「大吉」。
小吉とか中吉が多かった私としては、大吉は過去なかなかないことだったのだ。



大吉というわりに、
「待ち人」は、「さわりあり 来らず」とか
「失せ物」は「出がたし 下にあり」とか
「商売」は「買うのは損 控えよ」とか
…大吉っぽくない文章が並んでいたなあ。

こんなふうに大っぴらにすること自体、好ましいことではないのかもしれないな。
まあいいや。
とりあえず、よいことがあるといいな。
何しろ大吉なのだから。

神社を出ると、横には移築工事中の大倉喜八郎の蔵春閣が姿を現していた。



蔵春閣は、新発田市出身の大倉喜八郎が、隅田川に面した場所に構えていた別邸の一部である。
船橋市に移設されたが、解体されてただ今移築中ということである。
新発田市は、今年の4月から一般公開を予定しているという。



そんな建物を横目に見ながら、初詣終了。
おみくじどおりによい年にできるかどうかは、神頼みだけでなく、自分自身の心がけ次第ですな。
神様が応援してくれるような行いをしていかなくてはね…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんちゃってランナー、走り初め

2023-01-05 15:21:20 | RUN
今年の走り初め。
例年なら、というより感染症禍になる前だったら、年明け早々に村上市元旦マラソンを走って走り初めとしていたのに、2年続けて中止となっていた。
今年は3年ぶりに開催されたのだが、参加を見送ったのだった。

参加見送りをして、モチベーションがなくなっていたせいもあり、ずっと走っていなかった。
調べてみると、この前走ったのが、12月13日。
なんと3週間以上も走っていなかったのである。
自らを、「なんちゃってランナー」だと思うが、それにしても間が空き過ぎだ。
昨日、歩道を歩いていたら、走っている人が気持ちよさそうにそばを通り過ぎていった。
「いいなあ。でも、今日は少し寒いし、ちょっと頭が痛いのだよなあ…。」
などと、走らない理由を探す恥ずかしい自分がいた。

今日は、昨夜雪が降ったため、道路は雪が積もっていたりぐしょぐしょになっていたりした。



雪が降ったから、昨日よりも今日の方が気温は低く、外は3℃だった。
これまた走らない理由になるのだが、今日は、なぜか昨日よりも走ろうとする気持ちが強かった。
「どれ。2023年の走り初めに出るか。」
と、車の通りが少なく、消雪パイプからの水で雪がとけている道を選んでジョギングに出た。
今日の目標は、8km。
初春なので、縁起のよい、末広がりの八キロとした。



地下道(アンダーパス)の歩道は、下りと上りがあり、片道約400m。
ここの往復と、それ以外の片道約500m。
1周すると、およそ1800m。
ここを何回か行き来した。

さすがに3週間余りも走っていないと、体が重い。
いつもよりも心拍も上がり気味だった。
それでも、走っている自分に満足する。
ああ、走るのは気持ちがいい!
ずうっと走っていなかったことを後悔してしまう。

半分ほど走っていたら、天候が急変した。
あられが降ったり雪が降ったりして、顔を上げて走るのがつらくなってきた。
冬期間、関東だとこういうことはないのだよなあ。
新潟は、その点つらいよなあ、なんて思いながら下を向いて走っていた。



やがて、急に明るくなった。
雪は降っているのに、薄日が差しているのだった。
天気雨ならぬ天気雪!?



こういう天気は、こちらではよくある。
関東では風花ならあるだろうけど、こっちは吹雪と陽射しの両方を味わえるのだぜ、なんて負け惜しみにも似た感覚ながら、胸を張って走り続けた。

もともとジョギングで楽な走りのはずだったが、今日は8kmが無理のない精いっぱい。
だが、走り終えた後の爽快感を久々に味わった。
さて、少しずつでもいいから、今年もゆっくりながら走れる体をつくっていくことにしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

30年余り前の教え子たちの同級会

2023-01-04 19:26:46 | 「育」業
かつての教え子、I氏たちの年齢は、43歳。
先月、今東京に住んでいるはずのI氏からメールが入った。
正月に地元でプチ同級会をするから来てくれないかというものだった。
行動制限がなくなったとはいえ、まだ感染症禍であることから悩んだが、めったにない機会なので、感染が急拡大しなければという条件付きでOKの返事をした。
ワクチン接種から1週間後ということもあり、十分気をつけながら出席することにした。

I氏たちの代の子どもたちである彼らに関わっていたのは、もう30年を超える昔のこと。
彼らは、小学校5,6年生だった。
私がまだ33歳の頃に出会った子どもたちであった。
2年間の担任生活の間、もちろん本気になって「育」業生活に取り組んだ。

だが、それまで10年近くも教師生活を送っていたというのに、2年目の後半には、自分自身に指導力不足を痛感する日々となった。
別に子どもたちが学級崩壊状態になった訳ではない。
ただ、教師としての自分の思いが子どもたちに十分通じない、ということを感じて悩んでいたのだった。
何度同じ注意を受けても改善されないなどということがあったり、避難訓練ではいらないおしゃべりをする、真剣味がない姿を見せられたりした。
その頃の私は、当時のテレビの「金八先生」のように、熱心に働きかければ、きっと道は開けると思ってがんばっているのに、なぜ思いが伝わらない?と、思い悩むばかりだった。

あるとき、その原因は、子どもたちではなく私にあることがわかった。
私は、正論で子どもたちに相対し、自分の思いを伝えようと一生懸命になるのだが、それがよくなかったと気付けたのである。
こちらの思いは伝えようとするが、子どもたちの思いを十分に聴こうとしていなかったのである。
子どもたちの言い分に対する耳の傾け方が足りないから、教師の上からの言葉を素直に飲み込んでくれなかったのである。
一方的に教師の価値観を押し付ける指導ではなく、子ども自身がその価値観に気付くようにしていくことこそ重要だと気付いたのだ。
それ以降は、私の子どもたちへの働きかけ方も大きく変えることができた。
「育」業で本当に大切なことに、ようやく気付けたのかもしれなかった。

そう考えると、この代の子どもたちは、私の愚かさと子どもの側に立つ大切さを教えてくれた子どもたちだったと言えるのだ。

会場では、大人として充実期を迎えた12人と会うことができた。
参加を予定していたもう1人が、家庭内に感染者が出たので大事をとって当日キャンセルになったのは、今の時代を表している。
幹事を務めてくれたI氏は、この会にともに出席したもう一人と東京で飲んだ際に、小学校時代の同級会をしたいねという話になり、それを実現させようと考えたのだそうだ。
そこから、LINEを駆使して呼びかけ合い、この日の会にこぎつけたということだった。
さすが、今風だと思った。
会場も、東京とは離れているので、ネットでやっている店を探し、口コミを見るなどして決めたというあたりも、さすがであった。

席上、小6当時の野球の試合で、タッチアップを怠って先取点が取れずに負けた話や、別の先生に教わる理科の時間に手いたずらして、アルコールランプをひっくり返して火災報知機を鳴らした話など、昔の話題にも花が咲いた。



また、現在の家族の話が多くなるのも、40代前半の彼ららしい内容だった。
特に、子どもの心配をするのは、昔の彼らを知っている身としては、非常に微笑ましく思った。



30年余りたってみんな大人になり、社会人・家庭人として立派に今を生きている姿を見ることができた。

私にとって、あのころの「育」業の信条は、「自分で考え、判断して、たくましく生きていく人を育てる」ことだった。
その目指していた姿が、目の前にあった。
一人一人が輝いて見えた。

短く楽しい時間が、あっという間に過ぎた。



次の会への誘いも受けたが、そこは若い人たちに気兼ねなく過ごしてほしいから、辞去することにした。
店の外に出て、こんな時期だから一人一人と握手ではなくグータッチを交わした。
私なりの激励と別れのあいさつのつもり。
高齢者となってみると、このような会はいつまでできるか、分からないと思ったりする。

今はもう、皆さんが支える時代になっている。
これからも、がんばって生きておくれ。
皆さんの幸せをいつも祈っているからね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さすが、岸本大紀選手!!!

2023-01-03 20:25:01 | ひと
うわあ!すごい!!
やっぱり岸本選手だなあ!
その底力に感心。
昨日は城西大の山本唯翔選手、今日は青学大の岸本大紀選手。
箱根駅伝2日目、復路でも、新潟県出身選手の活躍に心躍った。

復路スタート時点で2分30秒差だった青学大と駒大との差が、9区の岸本選手にタスキが渡った時点では、1位駒大とは最大の7分32秒差がついていた。
しかも、順位は、8位にまで落ちていた。
7位とは42秒、3位とは57秒の差があった。
それを急追し、上位争いをしていた3位から7位までの5校をまとめて一気に抜き去って行ったのは、痛快以外の何物でもなかった。
去年同級生が作った区間記録も望めるかとも思ったが、数秒及ばなかった。
とはいえ、しっかり区間賞を獲得して、優勝候補と言われながら苦境に陥っていたチームを表彰台最低限の3位を確保する活躍を見せた。
できれば、その快走は、首位争いをするためのものであってほしかったけれども…。

やっぱり大したもんだわ、岸本大紀選手。
今回は、もう4年生だったから、次の舞台は社会人となる。
その先は、GMOインターネットと決まっている。
そのチームには、大迫傑選手も所属するから、きっといい刺激を受けるのではないかと思う。
新潟県出身選手としてのさらなる活躍を祈らずにはいられない。
新潟県出身選手といえば、社会人となってからも活躍している服部勇馬選手は、一昨日のニューイヤー駅伝でも最終区区間賞を獲得する好走だった。
それと同じような、あるいはそれ以上の存在として活躍することを期待している。

ところで、25年ほど前に一緒に勤めた同僚は、大学の後輩に当たった。
だから、彼も立教大の応援をしていたのだ。
立教大は、18位に終わったが、健闘した。
繰り上げスタートとなることなく、最後までタスキ渡しが途切れずにゴールできた。
1・2・3年生ばかりのチームであり、今回の経験がきっと来年の立教大に生きることだろう。

ところで、その私の後輩は、新潟県立三条高校のバスケット部出身であった。
バスケ部の同級生に、岸本という名の人がいて、今でも付き合いがあるとのこと。
その方は、岸本選手の父君だという話を聞いた。
なるほど、岸本選手の出身校は、三条高校だった。

そんなこんなで、岸本選手の活躍と立教大の健闘を見られてうれしい復路の箱根駅伝であった。


【岸本選手と、バックアップに回った同学年の主将との給水渡し。これも感動的なシーンであった。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

箱根駅伝往路、テレビ観戦を楽しんだ

2023-01-02 14:59:34 | スポーツ
正月2日3日は、やっぱり箱根駅伝!
さっそくの「こたつむり」になって、箱根駅伝を楽しんだ。
往路優勝は、結局、本命の駒大だった。
だが、十分に見応えがあった。
5区の1年生山川が、それまで競っていた青学大と中大を引き離して勝利したのはさすがだった。

終盤までどこが優勝するか分からない展開にしたのは、間違いなく青学大だった。
2区の近藤や4区の太田は、リードされていたチームを、後ろから追い上げて1位とほぼ並ぶくらいのところでタスキを渡していた。
区間賞こそとれなかったが、その走りはとても見事なものだった。
5区の山上りで差をつけられてしまったが、力のあるところを見せたのはさすが優勝候補だった。

そして、往路の優勝争いを面白くしたのは、中大の健闘だった。
2区の吉居兄が、駒大の田沢に臆することなくレースを進めてトップを奪ったり、3区の中野も区間賞の走りでリードを保ったりして、ダークホースの働きを見せてくれた。
5区も、あわよくば1位をうかがえるところまで追いつめたが、30秒遅れの2位に甘んじた。

うれしかったのは、新潟県出身選手の活躍だった。
5区山上りで、区間新記録を出したのは、城西大の3年生山本唯翔選手だ。
彼は、新潟県の開志国際高出身。
先日、バスケのウインターカップの優勝校だ。
十日町市の松代中卒だというから、高校も寮生活でがんばったはずだ。
去年はケガで出られなかったようだから、2年ぶりの箱根で存分に持てる力を発揮したのは立派だった。

もう1つうれしかったのは、55年ぶりの立教大の出場だ。
わが母校の「R」の文字が見られるのは、率直にうれしかった。
まあ、成績的には、18位前後をずっと走り、最後には最下位の20位になってしまったが。
それでも、5区まで繰り上げスタートにはならずに、「江戸紫」のタスキをつないでいった。
今日走った5人のうち3人が1年生だから、来年につながる経験になったことだろう。
明日は、10分遅れの一斉スタートになるが、最後まで駆け抜けてほしい。

さて、明日は、青学大チームで三条高出身の岸本大紀選手がどの区間を走るか、どういうレースをするかが、とても楽しみだ。

明日も、私はこたつむりとなって、箱根駅伝復路の走りを楽しませてもらうことにしよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする