新発田市には、こんな特徴のある建造物がある。
その名称は、
蕗谷虹児記念館。
1987年に開館し、新発田市出身の画家、蕗谷虹児の作品や資料等が展示されている。
蕗谷虹児と言えば、少女や若い女性を描いた挿絵画家として、知られている。
竹久夢二と並んで抒情的な画家として人気があったとも聞いていた。
そして、「♬金襴緞子の帯しめながら…」で始まる唱歌「花嫁人形」の詩の作者でもあり、それにまつわる花嫁の絵も、有名だ。
新発田市内の学校の多くには、額に入った「花嫁」の模造画が飾られている。
…そこまでは、知っている。
さて、ではどんな人だったのか。
どんな生涯を送った人だったのか。
そんなことは、まったく知らないでいた。
図書館で、こんな1冊を見つけた。
帯には、こんなことが書いてあった。
生誕120周年決定版評伝
オトメゴコロの永遠の理解者
夢二とフジタに見込まれ、魯迅と三島に愛された
大正・昭和大衆文化のスター蕗谷虹児。
その波瀾に満ちた生涯を丹念な取材で辿る本格評伝!
実際に読んでみて、「オトメゴコロの永遠の理解者」というのは、勝手につけた文言だなと思った。
「夢二とフジタに見込まれ、魯迅と三島に愛された」ことは、書いてあったが、そこを強調したいわけではない。
だが、「その波瀾に満ちた生涯を丹念な取材で辿」ったのは、間違いのないところだ。
著者が、豊富な資料を1つ1つ当たったり、虹児の人生にかかわりがあった人や場所を訪れ、のエピソードを拾い出したりしたものをもとに文章を構成していったのが分かった。
よく調べたものだなと感心した。
それでも、まだ件の魯迅の上海や、虹児若いときのパリには行けなかったことを口惜しく思っているようだが、新しく知ったことばかりだった。
蕗谷虹児の描いた女性には、ずっと早くして亡くなった母や、愛していた妻の面影があったということ。
生涯で2度結婚したこと。
1度めの女性とは、子どもを日本に残して夫婦でパリに渡ったこと。
パリで活躍していたときに、弟たちの借金苦で妻子を残して日本に帰ったこと。
その妻は、他に好きな相手を見つけ、日本に帰ると子どもを虹児に預けて別れたこと。
2度目の結婚でできた子どもたちの一人が、蕗谷虹児記念館の館長をしていること。
戦後は、絵本の挿絵や動画に関して関わっていたことがあったこと。
動画に関わったのは、ミステリー作家の赤川次郎氏の父から熱心に誘われたからだったということ。
そんな波乱万丈な様々なエピソードが、驚きであった。
そして、画家としてのたくさん描いたはずの作品は、パリで借金苦から売られたものが多く日本に持ち帰っていないから、まだどこかに眠っているものが多いはずだと書いてあった。
だから、記念館に大きな作品の数が少ないのか、と納得した。
没後、2015年にパリで「蕗谷虹児パリ展」が開催された際に、彼の評価が高まると共に、新たに作品が2つ見つかったりもしたそうだ。
今後まだ眠っている作品が見つかるかもしれない。
蕗谷虹児の記念館があることを知っていても、今まで一度しか入ったことはなかった。
だが、今回の読書で興味がわいてきた。
機会があったら、記念館を訪ねてみようと思う。
その名称は、
蕗谷虹児記念館。
1987年に開館し、新発田市出身の画家、蕗谷虹児の作品や資料等が展示されている。
蕗谷虹児と言えば、少女や若い女性を描いた挿絵画家として、知られている。
竹久夢二と並んで抒情的な画家として人気があったとも聞いていた。
そして、「♬金襴緞子の帯しめながら…」で始まる唱歌「花嫁人形」の詩の作者でもあり、それにまつわる花嫁の絵も、有名だ。
新発田市内の学校の多くには、額に入った「花嫁」の模造画が飾られている。
…そこまでは、知っている。
さて、ではどんな人だったのか。
どんな生涯を送った人だったのか。
そんなことは、まったく知らないでいた。
図書館で、こんな1冊を見つけた。
帯には、こんなことが書いてあった。
生誕120周年決定版評伝
オトメゴコロの永遠の理解者
夢二とフジタに見込まれ、魯迅と三島に愛された
大正・昭和大衆文化のスター蕗谷虹児。
その波瀾に満ちた生涯を丹念な取材で辿る本格評伝!
実際に読んでみて、「オトメゴコロの永遠の理解者」というのは、勝手につけた文言だなと思った。
「夢二とフジタに見込まれ、魯迅と三島に愛された」ことは、書いてあったが、そこを強調したいわけではない。
だが、「その波瀾に満ちた生涯を丹念な取材で辿」ったのは、間違いのないところだ。
著者が、豊富な資料を1つ1つ当たったり、虹児の人生にかかわりがあった人や場所を訪れ、のエピソードを拾い出したりしたものをもとに文章を構成していったのが分かった。
よく調べたものだなと感心した。
それでも、まだ件の魯迅の上海や、虹児若いときのパリには行けなかったことを口惜しく思っているようだが、新しく知ったことばかりだった。
蕗谷虹児の描いた女性には、ずっと早くして亡くなった母や、愛していた妻の面影があったということ。
生涯で2度結婚したこと。
1度めの女性とは、子どもを日本に残して夫婦でパリに渡ったこと。
パリで活躍していたときに、弟たちの借金苦で妻子を残して日本に帰ったこと。
その妻は、他に好きな相手を見つけ、日本に帰ると子どもを虹児に預けて別れたこと。
2度目の結婚でできた子どもたちの一人が、蕗谷虹児記念館の館長をしていること。
戦後は、絵本の挿絵や動画に関して関わっていたことがあったこと。
動画に関わったのは、ミステリー作家の赤川次郎氏の父から熱心に誘われたからだったということ。
そんな波乱万丈な様々なエピソードが、驚きであった。
そして、画家としてのたくさん描いたはずの作品は、パリで借金苦から売られたものが多く日本に持ち帰っていないから、まだどこかに眠っているものが多いはずだと書いてあった。
だから、記念館に大きな作品の数が少ないのか、と納得した。
没後、2015年にパリで「蕗谷虹児パリ展」が開催された際に、彼の評価が高まると共に、新たに作品が2つ見つかったりもしたそうだ。
今後まだ眠っている作品が見つかるかもしれない。
蕗谷虹児の記念館があることを知っていても、今まで一度しか入ったことはなかった。
だが、今回の読書で興味がわいてきた。
機会があったら、記念館を訪ねてみようと思う。