じゃっどん 西郷どん
調所広郷様は、いけなもんや
でもね~ 西郷どん
調所広郷(ずしょひろさと)様は、なんということでしょう
もしかしたら、島津藩財政改革の犠牲者かもしれませんね
本人には不本意ながら改革のために振るった大なたが、すごかった
そもそも、藩がそんなに困窮してしまったのは、
八代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の贅沢な生活にあったらしい
重豪は蘭学を始め、西洋文化、中国文化などに傾倒していた
藩校を設置したり、薬草や鳥の本の刊行もしている
そこまでは悪くないです
ただ、革新的な政策も、そりゃあ先立つものはなんたってお金、当然ですわ…
それで藩の財政は立ち行かなくなり、借金が膨れ上がる
晩年、重豪はようやく財政改革に取り掛かった
その時、重用されたのが下級武士の、「調所広郷」だった
やっと、調所広郷さんのところへ戻れました~((+_+))
その時、藩にはなんと!
五百万両の借金があったとか
現在のお金にして、?????
それで調所広郷は、仰天の策に出た
商人に強引に、借金を無利子で250年の分割払いにし、
さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。
二百五十年ローン? 踏み倒しじゃなかですか!
これにより天保11年(1840)頃には、財政は回復した
この改革の取組みには、清との密貿易、近郊の島の砂糖の生産などがある
ちょっと、聞き逃せない取り組みですけど…
せっかく財政を持ち直したのに、今度は島津斉興(重豪の孫)の後継者争い
島津斉彬 VS 島津久光&斉興
この時、調所広郷は久光&斉興側を応援
理由は斉彬も重豪(しげひで)のように西洋文化大好き♪ でお金を使いすぎるかも
と考えたためだった
方や、斉彬は幕府老中の阿部正弘と共に、薩摩藩の裏を暴いた
密貿易(琉球を拠点に中国との中継貿易)が幕府に知れて、
調所広郷は老中阿部に糾弾され沙汰が下ることになった
その時、調所は
”これらは一切我が主とは関わりなきこと
一切の責めは、こん調所広郷にありもす”
嘉永元年(1848)12月 薩摩藩邸にて調所広郷はすべての責任を負い自殺した
更に、西郷どんが、師と仰ぐ「赤山靱負・あかやまゆきえ」
斉彬派である赤山に、斉興から切腹の沙汰が下りた
ドラマではこの辺りまで進んでいたと思います
”今宵はここらで良かろかい” と、西田敏行さまが、言っちょりもした
私もここらで、
あいがとさげもした~、ほんならね~♪