kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

じゃっどん、西郷どん2

2018-01-28 15:58:12 | 西郷どん

 

じゃっどん 西郷どん

 

調所広郷様は、いけなもんや

 

 

でもね~ 西郷どん

 

調所広郷(ずしょひろさと)様は、なんということでしょう

 

もしかしたら、島津藩財政改革の犠牲者かもしれませんね

本人には不本意ながら改革のために振るった大なたが、すごかった

 

そもそも、藩がそんなに困窮してしまったのは、

八代薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の贅沢な生活にあったらしい

 

重豪は蘭学を始め、西洋文化、中国文化などに傾倒していた

藩校を設置したり、薬草や鳥の本の刊行もしている

そこまでは悪くないです

 

ただ、革新的な政策も、そりゃあ先立つものはなんたってお金、当然ですわ…

それで藩の財政は立ち行かなくなり、借金が膨れ上がる

晩年、重豪はようやく財政改革に取り掛かった

その時、重用されたのが下級武士の、「調所広郷」だった

 

やっと、調所広郷さんのところへ戻れました~((+_+))

 

その時、藩にはなんと!

 

五百万両の借金があったとか

 

現在のお金にして、????? 

  

それで調所広郷は、仰天の策に出た

 

商人に強引に、借金を無利子で250年の分割払いにし、

さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。


二百五十年ローン? 踏み倒しじゃなかですか!


これにより天保11年(1840)頃には、財政は回復した

この改革の取組みには、清との密貿易、近郊の島の砂糖の生産などがある

ちょっと、聞き逃せない取り組みですけど…

 

せっかく財政を持ち直したのに、今度は島津斉興(重豪の孫)の後継者争い

 

島津斉彬 VS 島津久光&斉興

この時、調所広郷は久光&斉興側を応援

理由は斉彬も重豪(しげひで)のように西洋文化大好き♪ でお金を使いすぎるかも

と考えたためだった

 

方や、斉彬は幕府老中の阿部正弘と共に、薩摩藩の裏を暴いた

密貿易(琉球を拠点に中国との中継貿易)が幕府に知れて、

調所広郷は老中阿部に糾弾され沙汰が下ることになった

 

その時、調所は

”これらは一切我が主とは関わりなきこと

一切の責めは、こん調所広郷にありもす”

 

嘉永元年(1848)12月 薩摩藩邸にて調所広郷はすべての責任を負い自殺した

 

 

更に、西郷どんが、師と仰ぐ「赤山靱負・あかやまゆきえ」

斉彬派である赤山に、斉興から切腹の沙汰が下りた

 

ドラマではこの辺りまで進んでいたと思います

 

”今宵はここらで良かろかい” と、西田敏行さまが、言っちょりもした

 

私もここらで、

あいがとさげもした~、ほんならね~♪

 

 

コメント