麒麟がくる
「ときは今あめが下しる五月哉」
この連歌は、
光秀が本能寺の変をおこす数日前、
愛宕山で開いた連歌会のもの
「ときは今~」はその時の発句として光秀が詠んだものだそうです
「敵は本能寺にあり」
江戸時代中期以後に書かれた軍記物『明智軍記』の中にある記述で
光秀が発したのではならしいく創作の言葉だそうです
戦国時代のドラマで今まで何度聞いたことか
創作とはいえ、名言が残ったのですね、すごいですね!
嘉門達夫さん、ご存じと思いますが、パロディが面白い人ですよね
昔々、この方のラジオを聞いたことがあります
その時、何かの話を作って、その中でオチのように、
”敵は「ほ」の字なり”
と言われたことがあり、この部分だけ”
敵は本能寺にあり”
とセットで、思い出します
前後の話はもう何も頭に残ってはいませんが(^-^;
蛇足でした<m(__)m>
その光秀が、十兵衛と名乗っていた、二十歳代の頃のお話が
見れる、聞ける
見ないという選択肢はございません♪
第一回 光秀、西へ
十兵衛(明智光秀)は、主君斎藤利政(道三)に
堺はじめ、他国を見るために、旅をさせてほしいと、
直訴した
事の起こりは、
美濃の国境の明智荘に野盗がやって来て、田畑を荒らし、
穀物を盗んでいくのを阻止することが出来なかった
その時の一番の衝撃は、野盗が持っていた、
鉄の筒
物凄い音と同時に火の塊が体に向かって
飛んできたこと
火を噴く長い筒
十兵衛たちは、鉄砲というものを、知らなかった
種子島に鉄砲が伝来した年から、さほど経っていない頃かな
十兵衛が、これが鉄砲と知り得たのは
それは、野盗と共にいた、どこかの村人から聞いた話から
その村人は捉えられ、連れまわされていたと言い
野盗の頭が鉄砲を自慢していたのを見聞きしたのだ
その様子を十兵衛に教えてくれた
村人の名は「菊丸」
あれ、チコちゃんに叱られるでおなじみの岡村隆史殿ではござらぬか!
むむっ、これは、今後のストーリーに
欠くべからざる人物となります、きっと
ボーーッと見てられません!
今回は、二言三言の台詞で退場でしたが、次の登場を
期待します♪
「何度戦えばここを守れる」
美濃は井の中の蛙なのだ
そとの国を見聞して回らなければ、敵を知ることは出来ない
敵を知らなければ、美濃を、民を守れない
十兵衛は、殿である斎藤利政に直訴し,
了解を得た
お金を借りたか、貰ったか、とにかくこれで堺と京に行ける…はず
1、堺で鉄砲を買ってくる
2、小見の方(殿の正室)の病を治す京の名医を連れて来る
このふたつを約束した
チャンス、と表現するは不心得ですが、
京と堺で、この難題に結び付く出来事に巡り合った
多分、お金はすっからかんになったけど、
鉄砲と京の名医と若い女性の看護師を
美濃に連れ帰ることが出来た
殿からの評価は…
ところで、西へと向かう道中、中山道でしょうか?
美濃→垂井→琵琶湖→比叡山→山城→河内→堺→京
ああ、帆掛船(丸小船?)で琵琶湖を渡りましたね
湖東から湖西へ
守山あたりから堅田あたりに渡ったのかもしれないな
十兵衛が琵琶湖を渡った日は、いいお天気でよかった♪
船は、順風満帆
気持ちよさそう~♪
体いっぱい風を受けて…、タイタニック風
でも、琵琶湖は
比叡山や比良山から吹き降ろす強い風によって
遭難した船は数知れず、難所でもあったはずです
”急がば回れ”
という言葉が生まれたくらいですから
船は危険だったようです
危険回避のため、遠回りでも瀬田まで下って
ぐるっと琵琶湖の南端の陸上を歩きなさい
そんなことから、生まれた言葉だそうです
今、丸小船を見ることはありませんが、ヨットなら
帆が風をはらみ湖南から北へ進んで行くのを
見ることが出来ます
暖かくなれば、浜大津のあたりはいっぱいです
暦の上では、間もなく春
冬来たりなば春遠からじ
明日はもう、三回目が放送されるというのに、
一回目書くだけでやっとこさです
おさらい、ということで<m(__)m>
では、豪華な赤い着物の松永久秀さんの言葉をお借りして
”また會ハむ”