第十八回 越前へ
十兵衛の叔父の光安さんは、
ちょっと軟弱で、風見鶏的なところもあった
でも、道三につき、もう敗戦は免れない、と分かった時、
お城の最後を見届けるから、他のものは逃げよと命じましたね
「逃げて逃げて、生き延びよ
そして、明智家の主として
再び城を持つ身になってもらいたい」
光安おじさんから十兵衛への、遺言となりました
息子の明智左馬助には、城を出て十兵衛の元へ行くようにと
最期は叔父上、びしっと決まりました
山上の稲葉山城が燃え上がるのを見た十兵衛
明智荘にも敵は迫って来た
いよいよ十兵衛一行は逃げなければ命がない
尾張へ向かおうとしていたところ
駒ちゃんや菊丸、それに決定的なのが
帰蝶さんに頼まれて来た伊呂波太夫の言葉
もっと北へ、越前へ逃げることとなりました
伊呂波太夫という人は、なかなか謎の多い女性です
どうやら越前の朝倉氏とも、深い因縁がありそう
さて、美濃から越前へ
どんな道をたどったのだろうか
美濃街道というのがあるらしい、
越前街道というのも、朝倉街道も
他に、耳にしたことがあるのが、北國街道や北陸道
万葉集にも出て来るのですから、越前や越中へ行く道は
おそらく、発達していた
ただ、過酷な道行だったのは確かと思います
今なら、例えば、【大垣から福井・一乗谷】
乗り換えアンナ~~イ♪
大垣 JR東海道本線 特急しらさぎ9号 金沢行 14:22発
↓
福井乗り換え JR越美北線 九頭竜湖行 16:50発
↓
一乗谷 17:10着
2時間48分間 ¥4500
ヒューッ🚆
乗り換えなしの方法もあったりして
ああ、大いなる人類
でも、自然を壊すことは…
今日から明智光秀の、越前時代が始まりますね
十兵衛が、越前にいたなんて、全然、知らなかった
戦国時代の越前は朝倉氏が治めていて
ドラマでは朝倉義景の時代
「朝倉」というお名前、気にかかることが、ひとつありまして
よく読ませていただくブロガーさんが
何度か「朝倉市」を紹介されてました
美しい「秋月」という城下町の写真を拝見しています
はて、越前の朝倉氏との関係は?
領地替えなどがあったのかな❓
2016年7月とそれより数年前に、
一乗谷朝倉氏遺跡に行ったことがあります
その時の写真です
2016.7.2
唐門ですがこれは戦国時代のものではなく、
朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門で、
江戸時代中期頃に再建されたもの
唐門をくぐると、広い敷地に朝倉館や、4つの庭園がありました
山中には一乗谷城があり、千畳敷(一の丸)、二の丸、三の丸、
宿直(物見台)などの遺構があります
(標高400m強)
その周りには、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が
尾根や谷筋に沿って残っています
でも、織田信長によって、焼き尽くされ滅んだんですね~
その城下町が丸ごと、発掘によって現れたとのこと
考古学者さんもビックリしそうな大発見!
ちょっと、ポンペイを思い出しました
今まで、礎石など手付かずで、変わることなく
時空を超えてきた様に、地中から出たなんて
なんか、ロマン💛
この谷全体が城下町として繁栄していた
主要道路が川沿いに設けられ、
山側に、朝倉氏の館
川向うには、商人や町人の町、武家屋敷、寺院などがあった
発掘によって、
あ、この家は紺屋、ここは刀研ぎ師、鋳物師、数珠屋などと
たくさんの道具の発掘で、判明したのです
今は、復元町並みが出来ていて、見学が可能です
印象深かったのは、紺屋さん
大きなカメが、家の中に並べられていました
働く様子が、リアルに感じられました
一乗谷川です
鯉は、人の気配に集まって来ますね(^^♪
地域のサークルの仲間です
私は昨年度いっぱいで、やめたのですが、
サークルもこの状況下、活動はどうなっているのか…
ほぼ南北に流れる一乗谷川に沿って、城下町がありまして、
領地が長~いです
庭園の跡
庭園跡
池泉式の庭園跡
庭園は、4つもありました
広い屋敷跡、朝倉氏のお偉い方の住まいかな?
川向こうに見える、町人、商人の住まい(復元)
他に、お医者さん、武家屋敷、寺院、墓所の跡も
復元の町並
細い道を辿り、各家を覗いていきました
発掘により、この家は染物屋さんとか、
それぞれの職種が分かるものがいっぱい出たそうです
こんな風に道の両側に、町屋が建っていました
近畿から離れ、戦もなく?少なく?
豊かな暮らしがあったのですね
そんな城下町もいずれ、とある人物によって全滅の時を迎える
十兵衛も信長も、まだまだ若い時代のストーリー「麒麟がくる」
大きなターニングポイントに来て
十兵衛の立ち位置はどういう風に?
家族の暮らしはどうなっていくのでしょうか?