「家康、天下を治むるに能わず、
多くの者がそう申しておる
民の声か、天の声か」
三成が挙兵した
毛利輝元
宇喜多秀家
小西行長
徳善院
増田長盛
長束正家
その他にも、大坂入り多数
それを聞いて家康は
「逆臣に仕立てられたか」
と顔が曇る
家康断罪の書状が出回っていた
三成軍は今や、超大軍になっていた
家康は、天下人にそぐわないと言われたようで
落ち込んでいた
大坂城の阿茶、伏見城の鳥居元忠はどうなっただろうか
真田や上杉は思うようにならず…
「ここを勝って乗り越えれば天下を取れる」
本多忠勝が、殿、家康にエールを送る
家康は
大きな命令を出しました
「このままでは乱世に逆戻りだ
孤立無援になろうとも戦う
安寧な世は我らの手にかかっておる」
*井伊直政・福島正則
東海道を西へと進軍
*秀忠初陣 三万の兵
本多正信、榊原康政を伴い、信濃の真田を
従わせること
*結城秀康(家康の次男)
上杉は私が引き受けまする
家康の側室のお万は母
母の願いは「いつか家康の助けになれる人に育てる」
しっかり、現実にしましたね、えらい!
平岩親吉が従います
そして、殿
今は内府殿と呼ばれていますね
江戸へ
一方、石田三成は総大将となった
大坂城を離れ、美濃大垣城に入る
ここで、進められたこと
この様なことは知らなかったです、私
家康、三成、両人がそれぞれ全力で行ったこと
なんと、味方を獲得するための
書状を書く
毎日毎日、机に向かい
取り敢えず、相手への腹立ちを抑え書き続けたという
ご両人共がです
日本全体にです
いったい何通くらいの書状が日本を飛び交ったのでしょうか
JPもない時代
一説によると、手紙は現存をはるかに上回る数であった
その中で恐らく三成の書状は残されていないだろう
勝った家康の書状だけが残ったのだろう
そのようなことだそうです
さて、人心掌握の文章力への軍配はどちらに
天下分け目の序の章と言ってもいいでしょうか
先陣の井伊直政、本多忠勝、福島正則
あっという間に福島は岐阜城を落としました
「落とすのが早過ぎる」
だそうです
このまま進軍すれば、本軍なしでの
三成軍(大垣城)との戦になってしまう
そこで、秀忠には真田の居る信濃には行かず
美濃赤坂を目指せ、しかも期限付き9月9日までに
家康も江戸から美濃赤坂に急いだ
だが秀忠がまだここに着いていないことを知る
まんまと三成に導かれた騙されたと
家康も康政も正信も思った
導かれているのは
そこは天下分け目の戦の最終の地
三成の心の内を家康は察した
「関ケ原」
その頃三成も「関ケ原」に夢を見ていた
家康と三成は同じこころを持っていたのですね
でも、どこかで行き違った…
千代さん、見事な最期でしたよ、さようなら
彦殿(中央)かっこよかったですよ
千代さんと一緒に逝ってしまわれました
せめてもの仏さんの計らいなのか…
長らく登場のおふたりでした、ありがとう
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