銀閣寺(慈照寺)に行きました
銀閣(観音殿)~国宝
渋いです、 侘び寂びの世界
よく金閣寺と比べられますが、どちらがお好きですか?
文明14年(1482) 足利義政が隠居生活をするために
「山荘東山殿」の建立を手掛ける
(その東山殿が、のちの銀閣寺となりました)
これ以前、京の町は応仁の乱で、10年以上戦が続いていました
1477年頃、なんとか戦は収まったものの京の町は焼野原、荒れ果てていました
戦乱で東軍西軍の助っ人に、日本各地から守護大名が集結していた間に、
国元も、その東西対立のいざこざが起こっていたみたいです
そのいざこざは、戦国の世という名で、
150年もの長きにわたり続いたことを思うと、
応仁の乱の張本人、足利義政という方は罪な方です
政治には、まるで無頓着であるけど芸術的センスは抜群の文化人が
足利義政
そんなお方が建立した山荘東山殿
実は、祖父である義満は金閣寺を建てていて、
憧れのおじいちゃんの真似をしたかったらしい
それで、金閣(舎利殿)に倣って観音殿(銀閣)を建てました
銀閣の前の「向月台」と「銀沙灘・ぎんしゃだん」
向月台
銀閣といっても、銀箔を施す予定はなかったというのが本当で、
応仁の乱で、財力が無くなって、銀箔無しになった
ということはないのです
当時の文化人第一人者だったかもしれない義政は
侘び寂びの質素さを大切にした人だったのですね
でも、建立には相当な資金が必要で、戦で底をついた幕府の財政では
何ともなりません
結局は、京の町人にお金と労働力を求めた。
という少数意見を見つけたのですが…
京都の町人が、東山文化の担い手の一部になっていたと考えると、
嬉しい気持ちです。
が、本当のことは、分かりません
膨大な古文書を紐解けば、また、色々な意見も出て来るのでしょうね
10年以上の戦で、家を焼かれ町を逃げ回った人達よりも、
自分の別荘を建てることの方が、たいせつだったのでしょうか…
今の財務省や政府の偉~いお方もひどいけど…
義政さん、政治ほったらかし、風流三昧
許せないなあ~
ただ、その「山荘東山殿」は「銀閣寺」というお寺となり、
今、世界中の人達が続々とやって来ています
お茶の井
左大文字山
京都盆地の北西にあり、この山の麓に金閣寺があります
銀閣寺の庭園の展望所から見ました
東求堂(とうぐどう)~ 国宝
北面に配置された四畳半は、
「同仁斎」と呼ばれ、草庵茶室の四畳半の間取りの始まり
銀閣寺垣
私は何も知らなくて、椿のあまりに見事なのにだけ目を奪われました
この参道の片側は椿の足元を竹垣で覆ってありました
下から石垣~竹垣~生垣(椿)
その見事な調和が見どころだったようです(^_^;)
金閣寺に比べ、確かに地味で境内もそんなに広くはないですが、
いいお寺です♪