迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊─東海道3 水口宿→土山宿

2017-11-11 08:45:51 | 旧東海道
水口宿まで歩いた旧東海道、さらにその先を歩いてみることにします。


三筋の道が合流した先で本陣跡を左手に見て過ぎ、緩やかな坂をのぼって県道549号線を渡り、案内標識がそれと伝える東見附の跡を過ぎると、かつての松並木、現在は新旧の家屋が混在するなかを進んで行きます(上段写真)。


水口宿を出発して約四十分、水口町今郷に入ったところで、右手に今在家一里塚が。



これは明治時代に取り壊されたのち、復元されたものです。


その先で国道1号線を渡って今宿、片山と、のどかに続く道を経て、かつては立場(休憩所)がおかれていた大野地区へと入ります。



その先に伸びる「反野畷」には、わずかながら松並木が遺されて、



日射しの暑さから旅人を守りつつ、田畑と道との境界を示していた名残を伝えています。


反野畷から約三十分、土山町前野地区まで来ると、道が二手に分かれています。



右手の道は明治十三年三月一日に開通した東海道で、左手の細い道が、江戸時代の東海道。

もちろん左手の道に、進路をとります。

道はそのまましばらく北東に進んで、当時は松尾川と云っていた野洲川の渡しへと続いていましたが、現在舟渡しは無いので、そばを走る国道1号線を通って松尾川(野洲川)を渡り、



南土山信号を右へ折れて、水口宿から二里二十五町(10.6㎞)の、土山宿へと入ります。


櫛が名産品だった云う土山宿は、甲賀藩士であった土山氏に名称の由来を持つ宿場で、三代目の土山喜左衛門のとき、宿場本陣を仰せつけられたとのこと。



土山氏の本陣は明治三年、十代目喜左衛門の時に宿駅制度の廃止によってその役目を終えましたが、現在ものこる建物に(↑写真左手)、子孫の方が住んでおられます。
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