橫濱市中央図書館地下一階の橫濱市史資料室にて、「学童疎開と横浜大空襲」展を觀る。
大國と戰火を交へるなどと云ふ、為政者の思ひ上がりも甚だしい愚かな舵取りに民衆は翻弄され、昭和二十年(1945年)四月に米軍が沖縄に上陸すると、すでに体力を喪ってゐる日本軍は「本土決戰までの時間稼ぎ」などと耳を疑ふやうな言ひ訳をして沖縄縣民たちを見棄て、そして五月二十九日午前九時、米軍は神奈川縣の橫濱市中心街を約一時間にわたって空爆する。
(❈案内チラシより)
數多の爆彈は標的へ正確に落下して橫濱の街を破壊し尽くし、そしてそこに生活するなんの罪も無い大勢の市民の命を奪ふ。
西區平沼一丁目に遺る京濱急行線の旧「平沼橋驛」跡は、この橫濱大空襲によって廢止となった驛であり、
京濱急行は當時の爪痕を敢へて取り壊さずに残してゐると聞く。
戰後、占領軍の専用車両には各社上等な車両を用意したのに對し、京濱急行だけは「自分たちで壊した車両なのだから、自分たちで乗れ」と、構はず被災した車両を充てがった氣骨ともども、私は心から拍手である。
疎開先で撮影された冩真を見ると、學童たちはみな笑顔を向けてゐる。
しかしそれは、カメラを向けられた條件反射にすぎないことは、云ふまでもない。
(❈案内チラシより)
田舎人の、東京(よそ)者に對する陰湿な排斥根性について私は學生時代に、實際に學童疎開を經験した高齢の教職員の方より聞かされたことがある。
「大人になってから、久しぶりにその村の方角へ出かける用事があったので、ついでにアイツをぶっ飛ばしてやらうと訪ねて行ったら、當人はもふゐなくなってゐたよ」――
戰時中に庶民が有り合はせの布で衣類や防空頭巾を手縫ひした、その現物も展示されてゐた。
人災疫病禍元年に不織布マスクが手に入らなかった數ケ月、やはり間に合はせの生地でマスクを手縫ひしたことを思ひ出し、あの時とまるで同じではないか、とドキリとした。