国立能楽堂で、金春流の「巴」を観る。
“巴御前”と云えば、男勝りな女性の代名詞であったが、いまではほとんど、死語になっているらしい。
いまの学校は、自分の国の歴史を深く教えないからか?
あるいは、いまや至るところ“巴御前”だらけで、それが普通の光景となったからか?
いや、先人が伝える本家“巴御前”は、絶世の美女だった、という。
そうなると、近年よく見かける、水分の抜けたようなパサパサした『新種』など、まず対象外だ。
では、本家はいかなる美女だったのか?-
それは、舞台に居並ぶ八人の地謡方が、その流麗な節まわしで、わたしたちに伝えてくれる。
強さと、
やさしさと、
そして、
か弱さをそなえた、
そんな女性(ひと)-
わたしは、巴が愛する男の亡骸を前にして、鎧を脱ぎ捨てる姿に、限りなく“女性”をおぼえる。
シテのかけた“増(ぞう)”の面が、きわめて美しく、いじらしく映える一瞬だ。
それは、様式性を重視する能楽が、実は写実性を兼ね備えた芸能でもあることを見せる、一瞬でもある。
そして、能楽堂をあとにし、心身ともに鎧をまとい、顔には土塀の如く化粧を施した無表情な女性(にょしょう)を往来で見るにつけ、わたしはあの一瞬が、夢であったか現であったか、きまってわからなくなるのだ。
“巴御前”と云えば、男勝りな女性の代名詞であったが、いまではほとんど、死語になっているらしい。
いまの学校は、自分の国の歴史を深く教えないからか?
あるいは、いまや至るところ“巴御前”だらけで、それが普通の光景となったからか?
いや、先人が伝える本家“巴御前”は、絶世の美女だった、という。
そうなると、近年よく見かける、水分の抜けたようなパサパサした『新種』など、まず対象外だ。
では、本家はいかなる美女だったのか?-
それは、舞台に居並ぶ八人の地謡方が、その流麗な節まわしで、わたしたちに伝えてくれる。
強さと、
やさしさと、
そして、
か弱さをそなえた、
そんな女性(ひと)-
わたしは、巴が愛する男の亡骸を前にして、鎧を脱ぎ捨てる姿に、限りなく“女性”をおぼえる。
シテのかけた“増(ぞう)”の面が、きわめて美しく、いじらしく映える一瞬だ。
それは、様式性を重視する能楽が、実は写実性を兼ね備えた芸能でもあることを見せる、一瞬でもある。
そして、能楽堂をあとにし、心身ともに鎧をまとい、顔には土塀の如く化粧を施した無表情な女性(にょしょう)を往来で見るにつけ、わたしはあの一瞬が、夢であったか現であったか、きまってわからなくなるのだ。