迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ありあけづきのよしなかの。

2014-01-19 20:49:13 | 浮世見聞記
国立能楽堂で、金春流の「巴」を観る。


“巴御前”と云えば、男勝りな女性の代名詞であったが、いまではほとんど、死語になっているらしい。

いまの学校は、自分の国の歴史を深く教えないからか?

あるいは、いまや至るところ“巴御前”だらけで、それが普通の光景となったからか?


いや、先人が伝える本家“巴御前”は、絶世の美女だった、という。

そうなると、近年よく見かける、水分の抜けたようなパサパサした『新種』など、まず対象外だ。


では、本家はいかなる美女だったのか?-


それは、舞台に居並ぶ八人の地謡方が、その流麗な節まわしで、わたしたちに伝えてくれる。


強さと、

やさしさと、

そして、

か弱さをそなえた、

そんな女性(ひと)-




わたしは、巴が愛する男の亡骸を前にして、鎧を脱ぎ捨てる姿に、限りなく“女性”をおぼえる。

シテのかけた“増(ぞう)”の面が、きわめて美しく、いじらしく映える一瞬だ。

それは、様式性を重視する能楽が、実は写実性を兼ね備えた芸能でもあることを見せる、一瞬でもある。



そして、能楽堂をあとにし、心身ともに鎧をまとい、顔には土塀の如く化粧を施した無表情な女性(にょしょう)を往来で見るにつけ、わたしはあの一瞬が、夢であったか現であったか、きまってわからなくなるのだ。
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