國立能樂堂で、觀世流能樂師たちによる「創作能 鳴門の第九」を觀る。
第一次世界大戰によって大日本帝國の捕虜となり、德島縣鳴門市の板東俘虜収容所に収容された独國兵たちだったが、
(※板東俘虜収容所全景)
所長の松江豊壽(まつえ とよひさ)大佐の國際條約に則った人道的配慮により最善の収容所生活を保障されたことで、やがて藝術やスポーツの文化が花開き、地元日本人たちとの交流にもつながっていく。
(※松江豊壽大佐)
そして大正七年(1918年)六月一日、日々の温情への感謝をこめて、ベートーヴェンの「交響曲第9番」──“第九”の全樂章が日本で初めて演奏される。
(※初演時のプログラム)
その歴史を能樂として脚色した創作物で、“新作能”ではなく“創作能”と謳ってゐるところに何らかの主張を感じ、また作中では日本初演當時の合唱も再現されるとのことで、“第九”と能樂がどう融合するのか、大いに興味をもって觀に出かける。
阿波國鳴門を訪れた独人觀光客の男(ツレ)は一人の地元老人(前シテ)と出逢ひ、當地の名所を案内されるうち、翌日に「ドイツ館」で第九の演奏會があると知らされ、やがてその時刻になると昔日の独兵俘虜の靈(後シテ)が現れ、“第九”の合唱にのせて世界全人類の友好を訴へる──
と云った筋立てを、ほぼ現代語の詞に謠曲の節を付けて進行するが、従来の古典曲とは異なる運びに、噺子方が苦勞してゐるやうに見えた。
また後シテが地謠と掛け合ひで、
「大量殺人。戰ふな。人間同士。殺し合ふな」
「世界の政治の指導者たちよ。戰争放棄を決斷せよ。」
などなど、かなり直接的な強い調子で主張を繰り返すところは、抽象的な表現で見物客の感性に訴へる能樂には似合はない演出であり、一歩誤ればイデオロギー劇となりかねない危うさに、おっと……、と思ふ。
(※板東俘虜収容所の独國兵たち)
肝心の合唱は後シテの出と、ツレも囃子方も地謠方も引っ込んで後シテひとりが殘った舞薹で独舞するところで、現行の女聲が入らない男聲のみの“歡喜”を聞かせて、この實験的な能樂劇を締めくくる。
お客の入りは半分をやや下回る程度、内容ゆゑか、普段の演能會にはまずゐない雰囲氣の人々をよく見かけ、おかげで演能中に必ずゐる、小包装を剝いて飴を舐めたがるウルサイ爺さんだの婆さんだのといった迷惑分子がゐなかったのは幸ひ。
が、あの閑散とした雰囲氣では、何ら文化交流にもなってゐないと感じる。
日本で初めて“第九”が演奏された板東俘虜収容所は、開設から約三年後の大正九年(1920年)四月に閉鎖され、やがて人々の記憶からも消え去っていった云々。
そこに關東大震災以前の大正の、歴史(じかん)的遠さを感じてしまふ。
そして人々が去れば文化も去り、やがてはもとの更地に還る、さうした浮世の厳しさや無常ぶりをも、思はずにはゐられない。