横浜市旭区民文化センターにて、今月二十一日に師匠桂小南の名を三代目として襲名する桂小南治の落語を聴く。
師匠と同じ“野崎”の出囃子で高座に上がり、口演したのは「そば清」。
まろやかな上方言葉で、東京人にも受け容れやすい独自の上方噺を聴かせた師匠とは対照的に、次期小南は声量と凄味の効ひた江戸弁を駆使し、そこは師匠譲りの運びの良さで、聴く者を楽しませる。
芸を生かすも殺すも、すべては“間”の取り方にある。
現在の芸人と称する若い輩は、この日の二ツ目の如く、“間”といふ基本のまるでわかっていないのが、多いやうに見える。
ただ、人を笑わせることばかりにとらわれて、面白いこと──と、本人たちは思ってゐる──を言わうやらうとするばかり、肝心のお客は白け果て、結局は目も当てられない空回りに終わる。
つひでに、当人たちも芸人であることを終わりにしたはうが、良いといふものだ。
憎まれ口はさておき、二代目桂小南は逆境を逆手に取ってほかに真似手のいない独自の芸を確立した、わたしの好きな噺家の一人だ。
明確な口跡で幅広い年齢層に落語を広めた三代目三遊亭金馬に入門して江戸落語の修業をしたが、生粋の丹波人であるためにどうしても上方訛りが抜けず、苦労してゐるところへ、
「上方落語に転向したらどうだ」
といふ師匠金馬の言葉に従ひ、さらに、
「上方落語をそのまま東京でやっても受けないよ」
と云ふ師匠からの言葉をきっかけに、東京人にもわかりやすいやう工夫を凝らし、その結果江戸落語ではなく、かと言って純粋な意味での上方落語ともまた違ふ、人呼んで「小南落語」といふ、他に真似手のいない話芸を築き上げた。
ただ、真似手がいない宿命として一代限りの芸になってしまったのは残念だが──次期小南も基本は江戸落語だ──、現代には“音源”と云ふ、素晴らしい記録技術がござる。
音声に遺された二代目小南の噺を聴くたびに、
『いつでもどこでも、誰もがやってゐるやうなことを自分がやっても仕様がない』──
といふ自分の信念を、改めて強くするのである。
師匠と同じ“野崎”の出囃子で高座に上がり、口演したのは「そば清」。
まろやかな上方言葉で、東京人にも受け容れやすい独自の上方噺を聴かせた師匠とは対照的に、次期小南は声量と凄味の効ひた江戸弁を駆使し、そこは師匠譲りの運びの良さで、聴く者を楽しませる。
芸を生かすも殺すも、すべては“間”の取り方にある。
現在の芸人と称する若い輩は、この日の二ツ目の如く、“間”といふ基本のまるでわかっていないのが、多いやうに見える。
ただ、人を笑わせることばかりにとらわれて、面白いこと──と、本人たちは思ってゐる──を言わうやらうとするばかり、肝心のお客は白け果て、結局は目も当てられない空回りに終わる。
つひでに、当人たちも芸人であることを終わりにしたはうが、良いといふものだ。
憎まれ口はさておき、二代目桂小南は逆境を逆手に取ってほかに真似手のいない独自の芸を確立した、わたしの好きな噺家の一人だ。
明確な口跡で幅広い年齢層に落語を広めた三代目三遊亭金馬に入門して江戸落語の修業をしたが、生粋の丹波人であるためにどうしても上方訛りが抜けず、苦労してゐるところへ、
「上方落語に転向したらどうだ」
といふ師匠金馬の言葉に従ひ、さらに、
「上方落語をそのまま東京でやっても受けないよ」
と云ふ師匠からの言葉をきっかけに、東京人にもわかりやすいやう工夫を凝らし、その結果江戸落語ではなく、かと言って純粋な意味での上方落語ともまた違ふ、人呼んで「小南落語」といふ、他に真似手のいない話芸を築き上げた。
ただ、真似手がいない宿命として一代限りの芸になってしまったのは残念だが──次期小南も基本は江戸落語だ──、現代には“音源”と云ふ、素晴らしい記録技術がござる。
音声に遺された二代目小南の噺を聴くたびに、
『いつでもどこでも、誰もがやってゐるやうなことを自分がやっても仕様がない』──
といふ自分の信念を、改めて強くするのである。