この國難で、謠ひを樂しむ時間が増へる。

我が現代手猿樂の基礎であり、参考資料であり、そして趣味(たのしみ)であり──

我が現代手猿樂の基礎であり、参考資料であり、そして趣味(たのしみ)であり──
上手下手はさておき、謠ふことでその作品世界に没頭できることが魅力だ。
あくまで猿樂の歌謠として書かれたもので、文學モノではないのだから、小難しいことなど考へずに、そのままを謠へば良い。
謠本の巻頭にある語注を参考にしながら繰り返し謠ふことで、そこに織り込まれた情感は自然に体得できるからだ。
それが、先人たちの豊かな創造カから、おのれの想像力を鍛へることにもなる。
猿樂をツマラナイと感じるのは、演者か観る者のどちらかに、創造カ──または想像力──が欠けてゐるからだ。
その猿樂の公演が、今月下旬から制限付きで順次再開云々。
優秀な狂言方がひとり亡くなってゐる事實を考へても、この病菌騒動を甘く見てゐると言ふか、恐ろしいことをやるなぁ、と思ふ。
もはや浮世そのものが、この國難を黙殺、或ひは不感症状をおこしてゐるやうにも感じられる。
共存は、“慣れる”ことではあるまい。
だが、自分はそれには乗せられなければよいだけのこと。
真實(ほんたう)の安全がもたらされるまで、慌てず焦らず、謠ひの如くゆったりと、これまでに覺へたことを浚って樂しまん。
私がなぜ謠ひに魅せられるか──?
實はこれも大きな要素で、
和本の触感が好きだからでもある。