迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

勇姿の誘ない。

2019-03-13 18:15:19 | 浮世見聞記
日本の「国技」とされながら、日本人ではない力士が頂点──横綱にある現在の大相撲。

神奈川県出身の横綱は、意外やいまのところ、ただ一人。


戦前に活躍した第三十三代横綱“武蔵山”、その人なり。


その武蔵山を特集した企画展を、彼の地元である横浜市港北区の図書館で見る。



明治42年(1909年)、橘樹郡日吉村(現 横浜市港北区日吉本町)の裕福な家に生まれた彼は、父親が事業に失敗して遁走したのち、気丈な母の手ひとつで親孝行な少年に育つ。

生まれつき体格が立派で力自慢の彼は、多摩川の河原で催された素人相撲に参加したことがきっかけで角界にスカウトされ、大正14年(1925年)、出羽海部屋に入門。

初めは辛く厳しい修業に挫けさうになったが、母の叱咤激励もあってやがて破竹の勢ひで勝ち進み、昭和10年(1935年)には横綱に昇進。

昭和14年(1939年)に引退すると年寄「出来山」を襲名して親方となり、戦後間もない昭和20年10月に廃業。

角界から完全に離れ、本名の横山武司に戻った彼は、街へ働きに出たが結局上手くいかず、故郷の日吉に戻って不動産業を営み、昭和44年(1969年)に心筋梗塞で59年の生涯を閉じる──


横綱時代の写真を見ると、現在の力士にはあまり見られない引き締まった綺麗な体格だったことがわかる。


しかし、この企画展のミソは、現役時代に日吉村の実家に帰ると、村中で歓声でわき起こったとその大人気ぶりを傳へる一方、


場所数の増加に伴ひ身体への負担が増したこと、

それにより武蔵山自身も怪我に悩まされるやうになり、

さうした不調にもかかわらず無理な取組をさせられることがあったこと、

昭和7年(1932年)に待遇改善を求めて参加した運動──「春秋園事件」──のさいは、そのときの行動から社会の非難を浴びたこと、

など、“負”の側面も武蔵山自身が遺した言葉を通して、はっきりと紹介してゐることだ。


結局、度重なる怪我も原因となり、武蔵山は現役を引退するわけだが、

「組織の環境は、現在(いま)と大して変わらないんだな……」

といふのが、私の正直な感想。


そして、角界と完全に縁を切った廃業後、

『八百長だけはしなかった』

と述べてゐるところに、何か根の深いものを感じたのは、私だけだらうか……?



どこにおゐてもさうだが、つねに我が身の保守保身を図るのが、組織といふものである。

“改革”とはすなわち、体制側からすれば既得権益の瓦解であり、我が身の破滅に直結する。

そんな組織の現実に失望した者は、あとは訣別するほかはない。


それは、元「平成の大横綱」の騒動を見ても、明らかである。



そして解説パネルをひとつひとつ読んでゐて、ふと思った。

「今度の春巡業、はじめて観戦しに行ってみやうかしら……?」





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