翌日。
山内晴哉は「体調不良ということでお休み…」と始業前の朝礼で聞かされて、なぜかちょっとだけ、つまらなく思ったりする。
この日の晩は何だか過ごしやすい陽気だった。
アパートへ直帰は勿体ない。
ちょっと街をぶらついてやろう。
まずは萬世橋駅で下車して。
別に萬世橋駅でなくてもいいんだけれどね。
あの駅舎が好きなんだ。
明治45年に開業した時のままの、あのノスタルジックな赤レンガ造りの駅舎が。
ライトアップされたそれを駅前広場で振り返って、いつかこの駅舎を、自分の作品世界に取り込みたい―いつもそう思う。
広く造られた駅前広場に目を転じれば、
「あ、やってるやってる…」
いろんなアマチュアバンドが、ここでよくストリートライヴをやっているんだ。
たまにワンマンライヴの時もあるけど。
それ以外にも、マジック系のパフォーマンスとか。
この間はアイドルみたいなルックスの女のコたちが、中国武術を披露してたっけ。
僕はこういった、東京のド真ん中で“夢”に向かって頑張っている人たちを見るのが、けっこう好きだ。
僕だって、そのなかの一人のつもりだから。
仲間意識、って言うのかな、彼らの姿を見ると、自分も頑張らなきゃ!ってファイトが湧いてくるんだ。
この日はビジュアル系ロックバンドが演奏していて、ギャラリーには若い女の子たちがわんさか。
みんな曲にのせて、ノリノリで頭を振りまくっている。
たぶん追っかけたちだろう。
僕は彼女たちから少し離れたところに立った。
さすがビジュアル系だけあって、メンバー五人、揃ってメイクが濃い。
でも、綺麗は綺麗だ。
ヴォーカルなんか、ぱっと見は女の子かな、と思うくらい。
歌も、なかなかイケていた。
チームとしても、よくまとまっている感じがした。
やがて一曲が終わったところで、マネージャー係らしいちょっと年齢(とし)のいった女性が、「お願いしま~す」と言いながら、サンプルCDをギャラリーの一人一人に配りはじめた。
とりあえず僕も一枚貰う。
いかにもパソコンを使って自作したらしいジャケットには、
『μ』
と、バンド名が大きくプリントされていた。
“ミュ”とでも読むのかしら、と思っていると、察したらしいマネージャー係が、
「“ミュー”です、よろしく!」
とスマイル。
ああ、ありがとう…、と軽く頭を下げて、再びジャケットに目を落としたところで、ヴォーカルが次の曲の紹介を始めた。
それを汐に立ち去ろうと顔を上げた時、雑踏の間に見覚えのある人の歩く姿が、目に入った。
「おや…」
山内晴哉だった。
ははあ…。
体調不良はどうしたんでしょうねえ?
ま、そんなことはどうでもいいか。
倉庫ではいつもウインド上下の彼が、ああやって服装も髪型も整えた姿を見ると、やはり別人のようだ。
間違いなく、“街のカッコイイ男子”の部類に入る。
へぇ…。
あのようなプライベートの姿を目撃すると、何だかとんでもない“秘密”を覗き見してしまったような、くすぐったい気分におそわれる。
それにしても、まさかこんなところで“バイト仲間”を見かけるとはね。
やがて僕の背後で、“μ”が次の曲の演奏を始めた。
すると、それまでやや俯き加減に歩いていた山内晴哉は、目だけでチラッと、音のする方を向いた。
そして急に立ち止まった。
すぐ後ろを歩いていた会社員(リーマン)風の若い男が危うくぶつかりそうになり、ジロリと非難の目を向けながら、脇をよけて行く。
しかし山内晴哉には、男の存在など意識の外らしい様子。
彼は、今来た方向へと踵を返すと、まるで僕の背後で始まった音楽から逃げるように、再び雑踏の中へ、消えて行った。
僕の見間違いでなければ、彼は目許に、痛みの走ったような表情を、浮かべていた。
なんでそんなことをしようと思ったのか、自分でもよく解らない。
僕は、山内晴哉の後を追い掛けていた。
もちろん、追い付いて「やあ」と声を掛けるつもりではなかった。
それなのに、僕は雑踏に見え隠れする山内晴哉の背中を、決して見失うまいと早足に追っていた。
山内晴哉は萬世橋駅構内の自由通路を抜けて、駅の反対側へと出た。
こちら側は、バス乗り場のロータリーになっている。
その脇には、地下鉄「萬世橋」駅への階段が、口を開けている。
山内晴哉はそちらへ向かって歩いて行った。
地下鉄は、僕が住んでいる町とは全く違う方面を走っている。
そこで僕は、ようやく何の意味も無いことをしていることに、ハッと気が付いた。
ちょうど憑き物が落ちたように。
これ以上彼の後を追い掛けて、どうするんだ…?
僕は立ち止まって、思わず苦笑いした。
ワケわかんないことしてんなって…!
僕は地下鉄駅への階段を降りようとする山内晴哉の後ろ姿をもう一度見届けて、広場の方へ戻ろうとした。
その時、地下鉄駅の階段を上がって来た酔っ払いらしきオッサンが、山内晴哉の方へ、急にフラフラと寄って来た。
急なことで山内晴哉も避けきれず、酔っ払いは彼の肩にドンと衝突した。
何だか、酔っ払いはわざとやったようにも見えた。
すると酔っ払いオヤジはいきなり山内晴哉の襟首を掴んで引き戻すと、何やら大声で喚き始めた。
そして僕があっと思った時には、酔っ払いは姿を消していた―と、これでは何だか分からないよね。
襟首を掴まれた山内晴哉は、すかさず酔っ払いオヤジの顔に、思いっ切り唾を吐きかけた。
オヤジがあっと怯んだ隙に、襟首を掴む手を払いのけて、右足でオヤジを蹴り倒した。
蹴り倒した、といっても、場所は階段の上がり口。
酔っ払いは、階段下まで転がり落ちて行くしかない―
まさに、“秒殺”技だった。
山内晴哉はその様子を見届けることもなく、唖然としている周りの目にも臆することなく、地下鉄階段から離れると、目の前の横断歩道を渡って、向こうの繁華街へと、消えて行った。
〈続〉
山内晴哉は「体調不良ということでお休み…」と始業前の朝礼で聞かされて、なぜかちょっとだけ、つまらなく思ったりする。
この日の晩は何だか過ごしやすい陽気だった。
アパートへ直帰は勿体ない。
ちょっと街をぶらついてやろう。
まずは萬世橋駅で下車して。
別に萬世橋駅でなくてもいいんだけれどね。
あの駅舎が好きなんだ。
明治45年に開業した時のままの、あのノスタルジックな赤レンガ造りの駅舎が。
ライトアップされたそれを駅前広場で振り返って、いつかこの駅舎を、自分の作品世界に取り込みたい―いつもそう思う。
広く造られた駅前広場に目を転じれば、
「あ、やってるやってる…」
いろんなアマチュアバンドが、ここでよくストリートライヴをやっているんだ。
たまにワンマンライヴの時もあるけど。
それ以外にも、マジック系のパフォーマンスとか。
この間はアイドルみたいなルックスの女のコたちが、中国武術を披露してたっけ。
僕はこういった、東京のド真ん中で“夢”に向かって頑張っている人たちを見るのが、けっこう好きだ。
僕だって、そのなかの一人のつもりだから。
仲間意識、って言うのかな、彼らの姿を見ると、自分も頑張らなきゃ!ってファイトが湧いてくるんだ。
この日はビジュアル系ロックバンドが演奏していて、ギャラリーには若い女の子たちがわんさか。
みんな曲にのせて、ノリノリで頭を振りまくっている。
たぶん追っかけたちだろう。
僕は彼女たちから少し離れたところに立った。
さすがビジュアル系だけあって、メンバー五人、揃ってメイクが濃い。
でも、綺麗は綺麗だ。
ヴォーカルなんか、ぱっと見は女の子かな、と思うくらい。
歌も、なかなかイケていた。
チームとしても、よくまとまっている感じがした。
やがて一曲が終わったところで、マネージャー係らしいちょっと年齢(とし)のいった女性が、「お願いしま~す」と言いながら、サンプルCDをギャラリーの一人一人に配りはじめた。
とりあえず僕も一枚貰う。
いかにもパソコンを使って自作したらしいジャケットには、
『μ』
と、バンド名が大きくプリントされていた。
“ミュ”とでも読むのかしら、と思っていると、察したらしいマネージャー係が、
「“ミュー”です、よろしく!」
とスマイル。
ああ、ありがとう…、と軽く頭を下げて、再びジャケットに目を落としたところで、ヴォーカルが次の曲の紹介を始めた。
それを汐に立ち去ろうと顔を上げた時、雑踏の間に見覚えのある人の歩く姿が、目に入った。
「おや…」
山内晴哉だった。
ははあ…。
体調不良はどうしたんでしょうねえ?
ま、そんなことはどうでもいいか。
倉庫ではいつもウインド上下の彼が、ああやって服装も髪型も整えた姿を見ると、やはり別人のようだ。
間違いなく、“街のカッコイイ男子”の部類に入る。
へぇ…。
あのようなプライベートの姿を目撃すると、何だかとんでもない“秘密”を覗き見してしまったような、くすぐったい気分におそわれる。
それにしても、まさかこんなところで“バイト仲間”を見かけるとはね。
やがて僕の背後で、“μ”が次の曲の演奏を始めた。
すると、それまでやや俯き加減に歩いていた山内晴哉は、目だけでチラッと、音のする方を向いた。
そして急に立ち止まった。
すぐ後ろを歩いていた会社員(リーマン)風の若い男が危うくぶつかりそうになり、ジロリと非難の目を向けながら、脇をよけて行く。
しかし山内晴哉には、男の存在など意識の外らしい様子。
彼は、今来た方向へと踵を返すと、まるで僕の背後で始まった音楽から逃げるように、再び雑踏の中へ、消えて行った。
僕の見間違いでなければ、彼は目許に、痛みの走ったような表情を、浮かべていた。
なんでそんなことをしようと思ったのか、自分でもよく解らない。
僕は、山内晴哉の後を追い掛けていた。
もちろん、追い付いて「やあ」と声を掛けるつもりではなかった。
それなのに、僕は雑踏に見え隠れする山内晴哉の背中を、決して見失うまいと早足に追っていた。
山内晴哉は萬世橋駅構内の自由通路を抜けて、駅の反対側へと出た。
こちら側は、バス乗り場のロータリーになっている。
その脇には、地下鉄「萬世橋」駅への階段が、口を開けている。
山内晴哉はそちらへ向かって歩いて行った。
地下鉄は、僕が住んでいる町とは全く違う方面を走っている。
そこで僕は、ようやく何の意味も無いことをしていることに、ハッと気が付いた。
ちょうど憑き物が落ちたように。
これ以上彼の後を追い掛けて、どうするんだ…?
僕は立ち止まって、思わず苦笑いした。
ワケわかんないことしてんなって…!
僕は地下鉄駅への階段を降りようとする山内晴哉の後ろ姿をもう一度見届けて、広場の方へ戻ろうとした。
その時、地下鉄駅の階段を上がって来た酔っ払いらしきオッサンが、山内晴哉の方へ、急にフラフラと寄って来た。
急なことで山内晴哉も避けきれず、酔っ払いは彼の肩にドンと衝突した。
何だか、酔っ払いはわざとやったようにも見えた。
すると酔っ払いオヤジはいきなり山内晴哉の襟首を掴んで引き戻すと、何やら大声で喚き始めた。
そして僕があっと思った時には、酔っ払いは姿を消していた―と、これでは何だか分からないよね。
襟首を掴まれた山内晴哉は、すかさず酔っ払いオヤジの顔に、思いっ切り唾を吐きかけた。
オヤジがあっと怯んだ隙に、襟首を掴む手を払いのけて、右足でオヤジを蹴り倒した。
蹴り倒した、といっても、場所は階段の上がり口。
酔っ払いは、階段下まで転がり落ちて行くしかない―
まさに、“秒殺”技だった。
山内晴哉はその様子を見届けることもなく、唖然としている周りの目にも臆することなく、地下鉄階段から離れると、目の前の横断歩道を渡って、向こうの繁華街へと、消えて行った。
〈続〉