迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

男と女の限界値。

2018-04-22 15:47:17 | 浮世見聞記
神宮外苑あたりがやけに賑やかだと思ったら、球場で大學野球が行なはれてゐるのだった。


まう一昔も前、妙に美化されたしょせん不良を主人公にした野球映画の、エキストラに参加したのがこの球場だったなァと、大した懐かしさも無く思ひ出してゐると、敷地からは気合ひを入れてゐるらしゐ男集団の野太ひ聲、そして私の傍を通り過ぎて行く、應援團らしき長ひ学ラン姿の男子学生たち──

男たちの硬派な世界が、そこには熱く彩られてゐた。


……が、そんな私の感慨を、いかにも偽(つく)られた甲高ひ女の叫び聲が、ブチ破った。


それは、スタッフ係の男子学生に混じった女子学生らしきが、彼らとなにかを来場者に呼び掛けてゐるものだった。


硬派な男聲ばかりのなかのその一つの女聲は、いかにも偽(つく)られた聲質だけに、なにか勘違ひをしてゐるのではなゐかと思へるほど、場にそぐわなゐものだった

あきらかに、ひとり浮ひて聞こへた。


“女流能”といふものを一瞥したとき以来の、違和感だった。


男性(おとこ)の世界に女性(おんな)が入り込むことの“限界”が、そこにあった。



双方が去勢でもしなゐ限り、「男女の性別」といふ決定的な壁など、さう簡単に乗り越へられるものではなゐ。

それは、このごろ浮世を騒がしてゐる男性公人たちの女性絡みの不祥事が、よく示してゐる。 


言ひ古された言葉だが、浮世には「おとこ」と「おんな」しかいなゐ以上、選択肢は無ひのである……。



偽(つく)り聲の女のコは、さらになにか叫んでゐる。

と、叔母の友人女性の言葉が、脳裏をよぎった。


『なんでもかんでも女が出てくりゃいゐってもんじゃなゐと、わたしは思ふのよ』
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