地元の空き地に、一輪だけ咲いたあやめ。
種がひとつだけ、そこに落ちたからだらう。
この一年で、道沿ひのさまざまな花を樂しむ目を持つやうになったことが、この國難下における私の唯一の幸せか。
地区センターを覗くと、秋に公共施設で開催される予定の、“藝術祭”の参加募集案内が出てゐた。
昨年に初参加を考へたものの熟考の末に見送り、その代はりに當日は野外での演しものを見學した。
屋内の展示にも興味はあったが、入口の人だかりを見てそのまま引き返したのだった。
今年の案内には、屋内における感染對策として収容人數には制限があり、開催時に規制が解除されるかは「不透明」と断ってゐる。
實際、官は催事の入場者制限については六月まで延長すると發表してゐる。
また、ワクチン接種の進行が遅滞すれば──まずさうなるだらう──、今年の感染爆發はさらに秋と年末年始に二波、起こり得るとの試算云々。
案内に明記された「不透明」の三文字が、すでに結論を示してゐる。
かういふとんでもない不自由をもたらした元凶たる支那では、福島縣における例の原發処理水の海洋放出について、このやうな風刺画像を官のネットに公開云々。
葛飾北斎の有名な浮世繪より、遠景の富士が原發の施設に、手前の舟では舟人が処理水を棄てる様に描き替へられてゐる。
支那官人は自國の画工が描いたものとした上で、削除するつもりはない云々。
この問題における両國の政治的思惑については、ここで云々しない。
ただ、純粋に風刺画として見て、面白いナと思ふのみ。