ラジオ放送の寶生流「放下僧」を聴く。
父を討たれた兄弟の仇討ち噺で、弟に説得された兄は、すでに出家した身ながら僧形の遊藝者である“放下(はうか)”に化けて、弟と共に仇討ちに出立する。
ワキ方がつとめる相手の仇役は黒の塗笠を深々と被った姿で登場し、笠が影になって顔が見えないところが如何にも訳アリで、視覺的にもわかりやすく、私には面白い。
目指す仇に上手く接近した兄弟は、相手が遊藝に見とれてゐる隙を狙って見事に本懐を遂げるわけだが、ワキ方は觀客もシテの舞に見とれてゐる隙に、件の塗笠を舞薹に残して切戸口から退場するので、いざ仇を討つ場面となって觀客がそちらへ目を遣ったときには、いつの間にか演者の姿は消えてゐて、仇に見立てた塗笠に向かって兄弟が刺す型を見ることになる。
かうした簡素化されたなかに視覺的な効果を狙った演出の上手さが、能の魅力でもある。
シテの放下僧が仇を油斷させるため、流行歌にのせて軽妙に舞ってみせる場面を“小歌(コウタ)”と云ひ、私も仕舞でつとめた經験がある。
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このときは會そのものをどこかのケーブルテレビ局が取材に来ており、後日そのニュース映像を見ると、私の仕舞だけがバッサリとカットされてゐて、とても不快になったものだ。
そのニュース映像上では、私はこの催しに参加してゐなかったことになり、情報はかうしてヒトの手で作られるのだなと、私はますます報道屋といふものを信用しなくなったことである。