さて、津久井村から約44㎞にわたる地下水道を経て横浜の野毛山浄水場へと流れ着いた水は、街中に設置された共用栓から、人々へと供給されました。
上の写真は、共用栓の実際を伝える明治時代の絵葉書の一部で、そのデザインから、「獅子頭共用栓(ししがしらきょうようせん)」と呼ばれました。
明治20年に水道が開通した時、水道生みの親であるパーマー氏がイギリスから約600基取り寄せたもので、そのうちの一基が現在、横浜市内に保存されています。
当時は横の鍵穴に鍵を差し込むと水が出る仕組みだったそうですが、現在は手を近づけると、センサー反応で水道水が勢いよく出る仕組みとなっています。
なんとなく、明治時代の水道水を味わえるやうな…?
上の写真は、共用栓の実際を伝える明治時代の絵葉書の一部で、そのデザインから、「獅子頭共用栓(ししがしらきょうようせん)」と呼ばれました。
明治20年に水道が開通した時、水道生みの親であるパーマー氏がイギリスから約600基取り寄せたもので、そのうちの一基が現在、横浜市内に保存されています。
当時は横の鍵穴に鍵を差し込むと水が出る仕組みだったそうですが、現在は手を近づけると、センサー反応で水道水が勢いよく出る仕組みとなっています。
なんとなく、明治時代の水道水を味わえるやうな…?