日本人で最初にラーメンを食べた人と云われている、水戸藩二代藩主・“水戸黄門”こと徳川光圀-明より来日した儒学者・朱舜水から振る舞われ、後には光圀自ら麺を打って来客などに振る舞ったそうです。
その水戸黄門が食したと云う中国麺を、当時の文献などを基に再現した「水戸藩らーめん」が、ご当地水戸まで行かずとも、東京都内でも味わえるということで、都内で唯一「水戸藩らーめん」が食べられる東京都三鷹市下連雀7-9-4の「中国料理 杏苑」へ。
写真↑が、その「水戸藩らーめん」(\800)。
小麦粉と粉末にした蓮根を混ぜて打った麺はやや褐色がかっていて、スープは半透明のさっぱり味。
具のお肉に椎茸も添えてあるのは、儒教哲学-“陰陽五行”-の影響によるものだそうで、何と言ってもこの古ラーメン最大の特徴は、ニンニク、ニラ、ネギ、すはじかみ(ショウガ)、らっきょうといった“五辛”を入れて食べること。
これによって“五臓之気が発する”のだそうで、どうやら当時のラーメンは“医食同源”、薬膳料理として捉えられていたようです。
この和風だしの薬膳ラーメン、量もなかなかで、充分に食べ応えがありました。
光圀没後137年の水戸徳川家に誕生したのが、のちの“最後の将軍”徳川慶喜。
その慶喜公が1867年(慶應3年)、外交政策の一つとして大坂城へ欧米外交官たちを招き、フランス料理で接待した際に出されたコーヒー-これが日本における公式の席にコーヒーが出された最初とか-を再現したものが、(株)サザコーヒーより“徳川将軍珈琲”という商品名で販売されているとのことで、JR品川駅構内ecuteの出店へ。
喫茶コーナーはあるものの、“徳川将軍珈琲”は少量生産のため豆の販売のみとのことなので、カップオンタイプ(\800)を購入して、自宅で賞味。
慶喜公直系の曾孫に当たられるカメラマンの徳川慶朝さんが自ら焙煎し再現したこの炭火コーヒー、口に広がる微かな苦味に、初めてこの味に接した古えの貴人もかくや、です。
購入時に店員さんがくれた“徳川将軍珈琲”の栞のなかの、徳川慶朝さんによる一文、
「慶喜は外国公使に満足してよろこんでもらうために、必死だったと思いますが、…」
に、幕末期の徳川慶喜公と云うと、どの研究者の著作も“明晰な頭脳を以て上手に立ち回った策略家”、といった人間味の薄い語調のなか、“必死”という一語に徳川慶喜公という人物の人間味を込めた、そういう評に初めて出逢ったことに感動。
血を引いた方のみ、察し得られる心なのかもしれません。
その水戸黄門が食したと云う中国麺を、当時の文献などを基に再現した「水戸藩らーめん」が、ご当地水戸まで行かずとも、東京都内でも味わえるということで、都内で唯一「水戸藩らーめん」が食べられる東京都三鷹市下連雀7-9-4の「中国料理 杏苑」へ。
写真↑が、その「水戸藩らーめん」(\800)。
小麦粉と粉末にした蓮根を混ぜて打った麺はやや褐色がかっていて、スープは半透明のさっぱり味。
具のお肉に椎茸も添えてあるのは、儒教哲学-“陰陽五行”-の影響によるものだそうで、何と言ってもこの古ラーメン最大の特徴は、ニンニク、ニラ、ネギ、すはじかみ(ショウガ)、らっきょうといった“五辛”を入れて食べること。
これによって“五臓之気が発する”のだそうで、どうやら当時のラーメンは“医食同源”、薬膳料理として捉えられていたようです。
この和風だしの薬膳ラーメン、量もなかなかで、充分に食べ応えがありました。
光圀没後137年の水戸徳川家に誕生したのが、のちの“最後の将軍”徳川慶喜。
その慶喜公が1867年(慶應3年)、外交政策の一つとして大坂城へ欧米外交官たちを招き、フランス料理で接待した際に出されたコーヒー-これが日本における公式の席にコーヒーが出された最初とか-を再現したものが、(株)サザコーヒーより“徳川将軍珈琲”という商品名で販売されているとのことで、JR品川駅構内ecuteの出店へ。
喫茶コーナーはあるものの、“徳川将軍珈琲”は少量生産のため豆の販売のみとのことなので、カップオンタイプ(\800)を購入して、自宅で賞味。
慶喜公直系の曾孫に当たられるカメラマンの徳川慶朝さんが自ら焙煎し再現したこの炭火コーヒー、口に広がる微かな苦味に、初めてこの味に接した古えの貴人もかくや、です。
購入時に店員さんがくれた“徳川将軍珈琲”の栞のなかの、徳川慶朝さんによる一文、
「慶喜は外国公使に満足してよろこんでもらうために、必死だったと思いますが、…」
に、幕末期の徳川慶喜公と云うと、どの研究者の著作も“明晰な頭脳を以て上手に立ち回った策略家”、といった人間味の薄い語調のなか、“必死”という一語に徳川慶喜公という人物の人間味を込めた、そういう評に初めて出逢ったことに感動。
血を引いた方のみ、察し得られる心なのかもしれません。