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これは日本橋を起点とする従来の一里塚とは別に、明治3年(1870年)に内藤新宿を起点に設置した“新一里塚”と云われるものの生き残り。
その後撤去され、長らく他の場所に保管されていたものを、近年になってかつての場所に最も近い、現在の地点に移したものだとか。
“品川縣”とあるのは、明治3年当時の、このあたりの区域名です。
新一里塚から20分後に給田3-23付近の仙川三差路で国道20号線と合流。
五里目の「仙川一里塚」があったと云う仙川町からケヤキ並木の坂を下り、さらに直進すること15分。
野川に架かる「馬橋(まばし)」を渡って調布警察署を左に見て過ぎると間もなく、その名もズバリ「旧甲州街道入口」信号、
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その旧道は調布市国領町2-21-4付近のこの分岐点で、右へカーブする国道とはここで再び分かれてそのまま直進。
高井戸宿から約6㎞、布田五ヶ宿へと入ります。
布田五ヶ宿は、国領、下布田、上布田、下石原、上石原の五宿をもって一宿とする、その総称として用いられていました。
しかし、日本橋方面からやって来た旅人のほとんどが次の府中宿を利用したため、旅籠は五宿合わせても数件しかなく、また本陣も脇本陣もおかないと云う、「間の宿(休憩所)」のような扱いだったようです。
最初の宿にあたる国領は、古代には国衙がおかれ、江戸時代には天領でした。
現在も地名として用いられ、
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また側を走る京王線の駅名にもなっています。
ここから上布田にあたる京王線「調布駅」前まで、道に沿って商店の並ぶ、賑やかな雰囲気が続きます。