「 淡路に行ったらぜひ人形浄瑠璃を見たい」前々からそう思っていました。
南あわじ市福良甲というところに「淡路人形座」という浄瑠璃会館があり、ここでは、定期的にプログラムを組んで公演をしているというので、行ってみました。外観は、写真のようなモダンアート風な会館なのですが、中に入ると、板張りの壁面に浄瑠璃人形の頭や衣装が飾られていて、何やら昔ながらの芝居小屋の雰囲気が漂っています。
今回の出し物は、「戎舞」(えびすまい)と「火の見櫓」の二本立。
拍子木が鳴って幕が開くと、舞台の上手に太夫と三味線弾きが現われて並んで座ります。
太夫が浄瑠璃を語り始めると三味線がそれに合わせ音を奏で、人形遣いが静かに人形を動かし始めます。人形は、三人の人形遣いが、首(かしら)と右手、左遣いが左手、足遣いが脚というように、別々に操作します。太夫、三味線、人形遣い 、この三位一体が、人形浄瑠璃なのです。
まるで生きているかのような豊かな動作と表情で演じる人形。
「艶容女舞衣」写真はwikipediaから借用
ここでは、幕間に、人形遣いが人形の仕組みを、実際の人形を使って見せてくれます。目の動き、顔の表情のつけ方、手の動き、それらの動かし方一つで、喜怒哀楽の表情ががらりと変わります。さらに、かしらには巧みな仕掛けがあって、一本のばねを押すだけで、美しい女の顔を鬼の形相に変えることもできます。この巧みにできた「人形」があってこその人形浄瑠璃なのですね。舞台装置の立体感の演出についても、そのからくりを見せてくれました。
緻密に仕組まれた「からくり」を、ここまで磨き上げた古典芸能の技に、感心させられます。
人形浄瑠璃で一番美しいのは、やっぱり女性のかしらでしょう。
気品と色気をうちに秘めた情念のようなものを演じさせたら、人間の役者より生々しい見事な女を演じます。そういえば、浄瑠璃の題材で一番馴染みの多いのも、世話物、いわゆる心中物ではないでしょうか。今回の「火の見櫓」でも、恋しい男のため、雪の中、命もいとわず 火の見櫓に登り半鐘をたたく、一途な女ごころを見せてくれました。
入場料は大人1500円・公演時間・演目 を調べていくことをおすすめします。
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余談ですが、人形浄瑠璃というと思い出すのが、宇野千代の「おはん」という小説です。
「おはん」の表紙絵から
物語の内容は、「おはん」という元の女房と「おかよ」という芸妓との間を、あちらにこちらにと揺れ動く男の心情を、主人公の男が、太夫に代わって淡々と語っているのですが、浄瑠璃のあの独特なふしまわしで、行きつ戻りつ語られる男の心情から、二人の対照的な女の姿や形やしぐさまでもが、生々しく浮かび上がってくる、まるで「人形浄瑠璃」の世界なのです。
「おはん」には、浄瑠璃の人形のような美しさがある。文楽の太夫さんたちが使う人形が、生身の人間以上に人間の真実の姿を、極限の美を、表現しているという意味である。僕は、文楽を見るとき、人形使いという芸人の不思議さを考える。どんな俳優でも、自分が役者である以上、舞台の上で自分の演じている姿を見ることはできない。自分の姿が見えないまま主観的なかんで演技し、美を作っている。ところが、人形遣いは、演技している人形を自分の目でたえず見ている。人形に感情を移入し、自分が人形になり切りながら、いまこの瞬間の人間の形はどうなっているかをたえず眺められる。自分で演じながら、美や芸の陶酔者だけでなく、鑑賞者、享受者にもなれる。人形遣いの立場に立った時に、女たちの心と姿の美しさ、哀れさを最大限に表現することができることを知っているのだ。(奥野建男・「おはん」解説より)
自分を離れて客観的にものを見据えることができるから、ものの姿がはっきりとみえてくる・・・
「 そうか ! 人形遣いの世界か! 」