ツァイス・ズームレンズの代わりにライツのレンズを持ち出した。ボディはSONYの機材だけど、一々ライツの空気なんてタイトルをつけるのも面倒だからツァイスの空気とする。そんなわけで見出しはボディの種類で区分していることになる。今のZEISSはSONY製だからね。
ここではライツ・カナダ製レンズでAPS-C換算の135mmの画角で撮り歩くと、どうも街の混沌とした姿が目につく。こうした混沌とした姿も京都だ。盆地だから土地は限られている。そこへ多くの住まいをつくり、坪庭という固有の空間の設え方を編み出したぐらいだから、狭いところを使う知恵には長けているのだろう。
そんなわけで現在でも道路は渋滞し、お寺の参道は人の列が続いている。もちろん道を広げようという考え方は御法度だ。
だから、そんな狭いところへ大量の観光バスや車がやってきても動じることはなく、あとは時間がたつしか解決の方法はない。そんな気分だから、せいて事を行うことは空間的に不可能なのだ。つまり京都は何事も時間がかかる。それを世間のメディアは、古都のゆっくりした時間が流れる街とプロモーションしてくれるわけだから、なんと素晴らしい誤解だろうか。世間もそれを信じてくれているようだ。
まあ、それでいて京都市営地下鉄のエスカレータを早足で歩く輩が多いから、きっと時間がかかりすぎる事へのいらだちなんだろう。
ところで私って大学時代は、とても仕事が早かったのですね。会議の司会をしながら同時に議事録をつくり、会議が終わって教員が自分達の部屋にたどり着く頃には、メールで議事録が届いているといった案配だったり、実技試験の入試問題の打ち合わせが終わりしなに入試問題案を作成して同僚の先生にみせたら、「もう、やめましょうよ、それはと」、あきれられたりしたけど。
そんなわけで京都人も暢気な輩とせっかちな輩は当然いる。動かない車の列をみながら、あきらめているか、ただひたすら耐えているかである。だから京都は車の運転マナーはものすごく悪い。道が狭いから車線変更の合図をだしたって入れてくれないからね。だから私は名古屋の街の方が、はるかに運転がしやすかった。悪名高い名古屋走りなんかみたことないからね。だから車社会でみると名古屋の方が、はるかに大人だと思うけどな。
つまり京都は、すべて空間が小さすぎるのよ。その小さいところへワッといろんな要素が集まってくるわけだから混沌の街なのです。
さて週末は、すこぶる寒い日がぶり返してきた。この頃は体も寒さに少し慣れてきたためもあるが、それでも終日ストープはつけっぱなしだ。曇天の景色が憂鬱という言葉しか思いつかない暗さだ。
あまり外を出歩かないので、gooのフォローを200クリックほどした。例えば居ながらにして北海道の雪景色をみることができる。なんと雪の中を移動しつつ、ルポしてくれたサイトもある。だから居ながらにしてリアルに-40°の北海道の空気を感じさせてくれた。そんな北海道の空気を味わいつつ朝の珈琲をすすっている。
京都市東山区清水坂
SONYα6000,Leitz Tele Elmarit90mm/F2.8
ISO100,露出補正-0.3,f/8,1/500
ISO400,露出補正-0.7,f/8,1/60
ISO320,露出補正-0.7,f/8,1/60