図1. 竹下通りで世紀末
図2. 1990年代の竹下通りは、人の塊が一気に通りを流れるほど人出が多かった。
図3. 1990年代の青山通り 今は背後の都営アパートも建て変わっている。この通りは初夏になると太陽が沈む位置が調度よく、木々の間から木漏れ日が射して大変美しい通りだ。
図4. 地下鉄をおりて地上に出たときに最初にみた都市の空気だ。それは一瞬ロンドンの街の空気かと思ったが、虚構の都市東京だった。もちろん何かを感じたらすかさず撮っておく、考えるのは後でよい。
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(本文)
街から街の主役である人間へと関心がうつっていった。それに20世紀末になるとモノクロフィルムの性能が格段に良くなり画像も綺麗だ。そんなフィルムで原宿・青山通りを撮影していた。
さて多くの人間達が気にかけているのが肖像権という言葉。肖像権を規定した法律はないが、裁判の判例として登場してきた概念だ。Wikでは「肖像権は他人から無断で写真や映像を撮られたり無断で公表されたり利用されたりしないように主張できる権利」と記述されている。
このブログで4枚の画像を例示としてあげた。
図1は、群衆だから肖像権に関する問題は少ない。
図2は、明らかに特定できる個人が写されているから、本人が主張すれば肖像権が認められると解釈する人もいるだろう。だが人混みのなかであり被写体の了解を取るのが不可能であったこと、撮影日が20年前であったこと、撮影が予測される公の場に自らが出かけていること事態が同意と理解できること、撮影したことによって被写体の社会生活上のマイナス要因にならないこと、以上の点で判断すれば肖像権が問われることは少ない。
図3も同様であり、現在存在しない風景を写しており特定できる個人が写っていても、前述の理由から肖像権が問題視される可能性は、これも少ない。
図4に至っては、まったく問題がない。
つまりここで取り上げた4点の画像が肖像権で問題視される可能性は、少ないと私は判断している。
手元に「Jean-Cloud Gautrand編:PARIS MON AMOUR、TASCHEM,1996」という本がある。フォトグラファー達が撮影した戦後パリのストリートフォトだ。ここにはパリ人達のプライバシーも含めて日常の画像が数多くアップされている。そしてこれがパリだという空気を感じさせてくれる。特にブレッソンが1952年に撮影した、ワインボトル2本を小脇に抱える少年は世界的に有名な写真だ。もちろん通りすがりの少年のスナップだから本人の承諾なんかないだろう。
この写真集を見ていると、かってこうした日常が、この街にあったということが後世になってわかる文化的財産になる。そこにストリートフォトの存在理由があるといえる。
最近、FBをみると特定のコミュニティの集まりの場であったりと、あらかじめ撮影了解された画像ばかりが並ぶ。肖像権を意識しすぎたユーザーの過剰反応や自己規制だろうか。だからFBそのものがつまらなくなってゆく。それでいて、特定のハプニングやアクシデントは肖像権を無視して容赦なく撮影されているけど。
東京・竹下通・青山通、1997-2000年
EOS3,EF28-135mm/F3.5-5.6,プラスX,Tマックス