オショロコマの森ブログ5

渓流の宝石オショロコマを軸に北海道の渓流魚たちと自然を美麗画像で紹介します、

瀕死の駆逐艦天津風の救出

2012-08-15 21:55:23 | 渓流魚、蝶、自然
にほんブログ村 釣りブログ 渓流釣りへにほんブログ村

2012年8月15日。今日は終戦記念日です。当初から降伏または敗戦記念日とはいわず、終戦記念日と呼んでいるのは、負け犬ながらの多少の意地でしょうか。私の父は、第二次大戦で予科練あがりの海軍航空兵として何度も戦闘に参加しました。カルカッタ爆撃で敵を撃破したり、英軍戦闘機ホーカーハリケーンを撃墜したり、米軍の戦闘爆撃機B-25ミッチェルとの空中戦で1時間におよぶ死闘の末撃退したり、空中戦などで被弾し3度も海に不時着したが奇跡的に生還したり、敵潜水艦攻撃でまっぷたつになって尾部のみで漂流中の駆逐艦天津風を苦難の末発見して乗員多数を救出するなど、時々戦争の話をするときの姿は私たち子供らにとって英雄そのものでした。ただ戦争は映画や小説とは違って実に悲惨なもので決して繰り返してはいけないと話していました。それにしてもこれら一連の戦争を指導した指導者たち?? の非人道的な無為無策無能ぶりに対する憤りは相当なもので、この点いつも言及しておりました。さて、現在の我が国の指導者達は、彼らに比べていかがなものなのでしょうか。

私は成人し、後に念のため海軍の戦闘記録を調べてみました。父の話は実際に記録に残っており感激したものでした。最後は神風特攻隊要員として九州鹿屋基地で待期中でしたが空襲で搭乗機を焼かれ 終戦を迎え、奇跡的に生き延びました。終戦記念日のブログ記事として父がもっとも誇らしく語っていた瀕死の駆逐艦天津風の救出につき、ここに記録しておきたいとおもいます。





当時の最新鋭駆逐艦天津風(あまつかぜ)。旧日本海軍・艦艇写真のデジタル着彩
Digitally Colorized Photos of old monochrome Vessels. For inspiration only.より引用


昭和19年1月11日、軽空母「千歳」と十戦隊の「雪風」そして「天津風」が、輸送船4隻を護衛して門司港を出港します。
ヒ三一船団と呼ばれるこの輸送船団は、連合艦隊の持つ軽空母と精鋭十戦隊の駆逐艦が参加した輸送部隊として、ある意味画期的な船団でした。
それまで輸送を軽視しがちであった連合艦隊が、海上護衛総隊の意見を容れて、例外的にタンカー船団の直接護衛に乗り出した初めての例だったからです。
船団に参加しているのはいずれも優秀なタンカーばかりで、既に枯渇の度を深めつつあった内地の燃料事情を好転すべく、シンガポールまで燃料を取りに行くという重要な使命を帯びていました。
門司港からシンガポールまで直行ルートをたどる船団は、「千歳」の搭載する九七艦攻による対潜哨戒の効き目か、米潜に襲撃されることなく南シナ海へと踏み込むことが出来ました。
1月16日の夕刻、その頼みの九七艦攻が使用できなくなった日没間際のことです。
「天津風」は10キロほど先に、浮上している敵潜を発見すると、直ちに増速、追い払いにかかります。
しかし十分に近づけないうちに米潜は潜航してしまったため、「天津風」は爆雷を落とすかどうか迷いました。
もし協同作戦中の米潜がいたら、「天津風」が深追いして船団を離れると船団が危険に陥ります。
「天津風」は取り敢えず威嚇投射を行って船団に引き返すことにして、米潜の潜航位置付近で右旋回をしました。
その直後、見張り員の悲痛な叫びが艦橋に響き渡ります。
「雷跡、左90度、近い!」
ですがその時にはもはや為す術はなく、魚雷は「天津風」の1番缶室付近に吸い込まれ、炸裂したのです。
「天津風」は1番煙突付近で両断され、艦首部はしばらく浮いていましたがやがて沈没、艦尾部も缶室の全てに浸水を見ましたが、辛うじて浮力を保つことに成功します。
艦首部に残された乗組員は、沈没が避け得なくなると艦尾部への脱出を試みましたが、荒れる夜の海にその多くが飲み込まれ、生存者は少ないものでした。
被雷による戦死者は、十六駆司令古川大佐以下76名を数えてしまいます。
艦尾部も機械室の隔壁が最後の防壁という状態で、決して安全な状況とは言い難く、素早い救援が必要でした。
ところが頼みの僚艦「雪風」は、船団に残された唯一の駆逐艦であるため、「天津風」の救援には来れませんでした。
ここから「天津風」の長い苦闘が始まったのです。
翌17日、運転の止まっていた機械が復旧、ポンプが生き返ったために「天津風」の状態はやや好転しました。
同時に後部電信室も使用可能になり、「天津風」は早速救援要請を打電します。
ところがチャートも暗号書も艦橋と共に流失していました。
暗号は生き残った通信士が応急暗号を暗記していたために事なきを得ましたが、困ったのは遭難位置が不明なことです。
艦に残された地図と言えば月刊「キング」付録の大東亜共栄圏の地図ただ1枚という有様で、しかし藁にもすがるような思いで「天津風」乗組員はこれを使って艦位を推定、位置を打電したのです。
すぐさま高雄通信所より、捜索のためにサイゴンの一式陸攻を差し向ける旨の回答がありました。
ほっと安堵する「天津風」乗組員でしたが、待てど暮らせど陸攻の姿は見えません。
やがて高雄通信所より「艦位は正しいか」との確認電。
「天津風」が自信がないと回答したところ、高雄通信所は一式陸攻が1日中捜索したが「天津風」を発見できなかったと言ってきました。
どうやら推定した艦位が大幅に狂っているようでしたが、「天津風」にはどうしようもありませんでした。
18日は天候悪化のため発進した捜索機は引き返し、19日、20日は終日悪天候で捜索機の発進もできませんでした。
21日には味方の復航船団が推測艦位付近を航過する旨の連絡があったのですが、水平線にマストの1本も発見できず、これも空振りに終わってしまいます。
22日も状況変化なし。
この間、「天津風」では食糧も尽き、乗組員の体力的な問題が表面化していました。
機械室の隔壁も補強してあるとは言えいつまで持つかわかりません。
23日、遂に田中艦長が無線波を各通信隊に方位測定してもらうことを決断します。
航行不能の「天津風」にとって電波を出すことは敵潜をおびき寄せかねない危険な賭けでしたが、状況好転の見込みがない以上、賭けに出ざるを得なかったのでしょう。
「天津風」は各通信隊に方位測定を依頼すると、中波を発信。
そして賭けに勝ったのです。
方位測定は成功し、直ちに捜索機が発進、23日の15時頃、待ちに待った捜索機の影が「天津風」乗組員の視界に入りました。
一式陸攻は疲れ切った「天津風」を元気づけるように何度も上空を旋回し、通信筒を投下して飛び去っていきました。
「天津風」乗組員がフカの泳ぐ海に必死の覚悟で飛び込み、何とか拾い上げた通信筒には、測定された艦位と、救援艦の手配が記されていました。
正確な艦位は推測艦位に比べなんと100浬もずれていたのです。

        HP 東江戸川工廠 駆逐艦天津風 より抜粋 引用

この天津風を発見したのが父の一式陸上攻撃機でした。父はいくら捜しても天津風が発見出来ないのは位地情報に大きな誤りがあると指摘しています。天津風が中波を発信して無線波を各通信隊に傍受してもらい新たに方位測定することを強く主張したようです。天津風の発見はここに一行で書かれているような簡単なものではありませんでした。父の話では当日は雲が厚く低くて発見は困難をきわめ、雲の下に降りるために命がけの超低空飛行を何度も繰り返し、まさに奇跡的に天津風を発見したとのことです。生き残った乗員を励ますため何度も何度も低く旋回したが、皆、ちぎれんばかりに手を振っていたのが印象的であったと話していました。あまり知られていないようですが当時の米軍は漂流中の日本兵を発見した場合は無抵抗であっても機銃掃射などで皆殺しにするのが常識でありましたから父は正に彼らの命の恩人と言えます。駆逐艦天津風は修理されて戦場に復帰し、その後まるで小説や映画にでもなりそうな数奇な運命をたどります。





  唯一残る父の海軍航空兵姿の写真。 格好良い、ひたすら格好いい写真だと思っています。





         晩年の父。享年88歳。子供3人。孫7人。ひ孫11人。立派な日本の男です。



にほんブログ村 釣りブログ 渓流釣りへにほんブログ村


にほんブログ村 釣りブログ 渓流釣りへにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする