学校のシステム

昨日,小学校のピカピカの1年生も、ひと月もすると反応が変わってくると申しました。原因が学校のシステムにあるとも述べました。説明を補足します。どの学校もカリキュラム(教育計画)に基づいて教育するのですが、これが教育される児童中心ではなく,公、即ちお上中心になっているのです.設置者は当然公です。しかし教育の中身・カリキュラムは歴史と共に変わっています。大きな流れは教師中心から児童中心、注入から学びへ です。戦後のきょういくはこの流れの逆行でした。そしてこんにちは更に加速化しているのです。新1年生を待ち受けているのは、週ごとに学習する一斉の指導内容です。しかも文字や数字。大人が見ると{お勉強}と映るものです。一人一人の心とどれだけギャップがあるか想像いただけるでしょうか。分単位のチャイムですら、子供の感覚になじむのはそれなりの時間が必要です。先生や友達とも関係は出来ていません。始めはほとんど偶然の寄り集まりなのですから。そこにもってきて、ひらがなや数字の練習。子供は何を想像して書いているのでしょうか。子供はどんな意味を感じているでしょうか。教育は最低学ぶものにその意味が認識されてなければなりません。本人にとって意味の感ぜられないものを強いると結果は嫌いになるだけです。いたって簡単な理屈なのです。これは大人も同じですから、難しい専門的なこととは言えません。そして結果がこれだけ出ているのに、更に拍車がかかっているのです。不登校が出るのは当然なのです。教育が子どもの方を見ていないんです。始めに鋳型ありきなのです。今日の学校のシステムとはそういうことです。子供にとって更に不幸なのは、同様なことが、家庭でも地域でも広く深く進行していることです。この関係は、子供の全生活にまで広げ捕捉ししスピードアップしているのです。考えてみてください。子供達はどれだけ自分の時間を保障されているでしょう。「いやいやテレビやゲームもたっぷりしてるよ」と言われるかも知れません。しかしそれは、本来子どもが望んでる時間と空間なのでしょうか。そこに仲間はいますか?私の経験では真のコミュニケションを望まない子どもはただの1人もいませんでした。全く例外はありませんでした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )