私も一つ告発します

高校の履修問題は関係者のあるマスコミへの投書から明らかになったそうだ。私も今までに何度か.不登校児童生徒数や発達障害の児童生徒数とその対応について告発的に書いてた。誰の目にも留まらなかったのか、未だに問題になっていない。朝日新聞には何回かファクッスを送ったが今もなしのつぶて。今、高校の履修のことが問題になっているので私は教育課程に関係した小学校〈中学も同様だとは思うが実際に現場にはいなかったのでここでは控える)の生活時程について告発したい。生活時程は授業をはじめ休み時間や給食・掃除などの始めと終わりの時刻のことで学校ではチャイムを鳴らす。子ども達には「チャイム着席」と言って授業開始のチャイムで着席することを要求している。時程は学校の決まりのようなものだ。その時程も市の教育委員会へ教育課程届け時に資料として提出しチェックされる。市は都へ報告し発送する。都から国へは同様に報告を求められる。(教育課程以外でも暫時文科省の要請で調査報告が求められ義務付けられている。)日本全国がそういう仕組みになっている。あの中で時程をよく見ると3時間目開始のチャイムは多分だが日本中の学校でほとんど守られていないだろうと思う。いわば守られない学校の決まりを作り子どもに〈チャイム着席とか廊下を走るな)と指導している。問題は3時間目開始のチャイムである。休み時間は外で元気に遊ぼうと呼びかけるので子ども達の多くは校庭にいる。そこで休み時間の終わりのチャイムが鳴る。5分後に3時間目のチャイムがなる。この5分間に子どもは学習する部屋で着席していなければならない。しかしこれは現場にいれば誰でも見ていることだが、子供はそれを守ることは殆ど難しい。何故なら、避難訓練で先生が先頭に立って非常口を使っても教室から校庭に全員集まるのにおよそ5分はかかる。それが子どもが校庭から教室へ行くときは、靴を履き替え、途中でトイレに行ったり水を飲んだりうがいをしたり、高学年で3時間目特別教室でする授業の場合3階や4階の教室の子は自分の教室に一度戻ってから勉強道具を持って理科室や音楽室へ教室移動しなければならない。これでは守れるはずが無いし実際守られていない。時程

に関して言えばて言えばこんなのはいいほうで、休み時間終了と3時間目開始時刻が同じになっている学校もある。1~2時間目、3~4時間目をくっつけ5分休憩を取ら無い学校もある.トイレや水のみ・教室移動が授業中に公然と行われる。他に2重帳簿的に2つ〈A・B時程を用意しB時程は授業の短縮をする)の時程を用意し使い分けてる学校も多い。年間の授業時間も教育委員会のチェックは厳しいが、遠足や運動会等の行事はその準備も含め、教科学習に割り振って教科学習の時間の確保に当てているのは教育委員会の指導による。遠足などは行事・社会科・理科などに読み替えをする。何故こんなインチキ・無理を全国的にしているのか。学校はこんな無理をする必要もメリットも全く無い。逆に決まりを守るように教育しなければならない学校が守れない決まりを作り子どもにそれを求めることから派生する問題が目の前で展開するのだから。そこで子どもは何を学ぶかが心配になる。教育委員会はを学校から見ると上司の機関で、従わないと教育課程も受理してもらえずつき返される。教師は組合員か否かを問わずそれに逆らいやたらと学校に波風立たせるデメリットの大きさを考えて目をつぶっているのが実情だ。管理職は心の内は別にして、(立場上とは思うが)教育委員会の立場で職員を指導する。それでとりあえず学校は安泰。子どもにしわ寄せが行く。25年前、指導要領で授業時間が40分から45分に伸びてからこの矛盾は以前にもまして大きくなった。子どもの学校への拘束時間は変えないと文科省や教育委員会は説明してきたから、授業時間が45分になると他の時間が減らされるのは必然であり、子どもの動きは細切れになる。これで子どもの学校での休み時間休憩時間はかなり減った。校内でこの問題を論議すると必ず校長からは「こうしないと教育課程が教育委員会に受理してもらえない」と言われる。この関係は市教委と都教委、都教委と文科省の間も同じ。文科省の方針がどれだけ下部に徹底しているかを求められるから仕方が無い。従わないときは 出世に関わるどころか最近は処分や給料格差に及ぶ、教育全体全体がこの流れになっているので子どもの置かれた矛盾は外部の人には理解できないかもしれない。役人の上下で言えば、下部や部下は上部や上司に高い評価を得るため上部の意向を先取りし、拡大・強化して下部に伝える。
昨日、文科相の研究委嘱をうけているある学校の学校公開に参加した。保護者始め近くの市から見学している先生や教育委員会の人多くにぎやかだった。保健室の先生に聞くと毎日頭痛を訴えて来る子が4~50人はくだらないと言う。お客さんが多いので障害児学級〈この学校は併設している)の子どもは特に落ち着きをなくしているとその担任は嘆いていた。先生方はこの日の準備で閉口しへたへたしているの教師の声も聞いた。学校長や教育委員会にとっては実績になるだろうし地域や保護者も「すごい研究してるいい学校」と思われるかもれ知れないが、子どもにとっては最低の状況にもなりうる。疲れた先生の顔を見ながら勉強が面白く盛り上がるはずが無い。〈若い音楽の先生はお客さんがいたせいなのか、はりきりびしびしやっていたが表情は硬く声はヒステリックになっていた。歌っている歌詞やメロデーと全くマッチしない。私はいたたまれず、教室から出た)お客さんも親達もどうせ見に来るなら上辺ばかりでなく奥までしっかりみないと
意味が無いだけでなく、ズレを増幅させ子どもに犠牲を強いる。(実は昔からこんな学校の研究の実態は先生方は常識として知っている。現役時代、実体の伴った研究は見たことは自分の学校も含め1度もなかった。見せるほどの時間も無いのにぶ厚いい冊子を作り内部から見ていると恥ずかしいほど派手に発表します)

次々保健室に来る子ども達が頭痛を訴えきているのに保健室を覗く人の影は全く見当たらなかった。学校の内部を告発すれば切りなくあるが現役の先生方は組合の先生方も含め「もの言わぬ先生」になってしまった。「物言わぬ先生」と言うより「物言えぬ先生」の方が正しいと思う。先生方も家族があり生活がかかっている。ものがいえないのは当たり前であれでは内部告発も困難。それを誰が責められよう。〈私は決して「先生方はいいとか正しい」とは全く思っていない。おかしな事実はこ山ほど見てきた。ただこれだけ教育が壊されたとき、末梢的・部分的なところだけをほじくって教師や教育委員会を非難しても今日の事態なったように解決とは逆方向に進むだけ。抹消的・具体的なところから入ってもいいから子どもの心や発達を目の奥において原因を根っこの方に深く掘りお起こさなければ意味が無い。

教育再生会議も初めは唯一ヤンキー先生に期待した〈現役のヤンキー先生を尊敬していた)が、この間、記者会見で見ると表情まで変わって見えた。私は教職員組合の肩を持つ気はないし、批判されるべきところはいっぱいある。ただヤンキー先生の言うように組合と教育委員会が手を組んで云々と言うのは言わんとするところは分るがいかにも瑣末的なところに終始し、問題の本質から離れる従来、責任者が抗弁するときと同じ論法になっている。もしそれを言う場合でも、全体を見ていれば言い方が違ってくるはず全体像が見えていない。今必要なのはいじめでも虚偽履修でもその全体的な姿とメカニズムをはっきりさせ根治的な対策を講じなければ間に合わない段階まで既に来ている。だから脳裏に子供の姿をはっきり意識しそれに関わる全ての全体的な関係を見てほしい。再生会議のめんばーの言葉を聴くとタレントのように奇をてらうパホーマンスは十分だが根の深さと全体の関係がぜんぜん見えていないのがすぐ分る。農家は作物を見て手入れを考える、目の前の稲がその稲の手入れの方法を教えてくれる。目の前の稲だけが生長の情報を持っている。決して学者のマニュアルでもなく、権力者やタレントの美辞麗句ではない。腕のいい大工職人が「木が大工の仕方を教えてくれる」と言っているのを聞いたことがある。一方、教育関係者は益々子どもから目を離し、お偉いさんの方に目を向け、お偉いさんも自分たちがもっと強力に指導しなければと子どもから目を離したまま張り切っている。これでは上から下まで一緒に子どもから目を離して子どもを育てるようなものでメクラ運転に近い。、工場生産のもやし作りや家作りと同じになってしまう。人は簡単に工場生産のように生産できるだろうか。たとえ生産されたとしても、どんな人間ができるのか。有害でないおいしいお米や人の心をかんじられる心地のいい家のようににならないことだけは間違いないだろう。実は上記のようなことはもうかなり進行している。現在の親の世代は既にかなり目を離されて育てられてきている世代になる。と言うことは、私にとって今の風潮は他人事ではなく、それらを育ててきた自分の責任を棚上げし他だけを批判することはできない。責任が今の人より重いかもしれないことを忘れてはいけないだろう。
内部告発と内面告白になってしまったが仕方ない。

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