世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
必修漏れ責任論争
高校の必修漏れの責任が国か、教委か、学校かと国会で与野党で責任論争をしたそうだ。(朝日)現場から見るとなんともそのこと自体が割り切れない。以前、書いたが、日本の教育は法律からかけ離れ中央集権的な教育行政で末端の子どもにいたるまで貫徹している。上意が末端まで貫徹する仕組みになっており益々その上意下達が強まっているは事は広く知られているかどうかは別だが。それは日本の伝統ともいえるぐらいに強い。戦後教育史を見ても、学校現場で比較的風通しがよかったのはわずか敗戦後の10年ぐらいだろう。昭和28年の教育委員の公選制が廃止されていらい現場や子どもより国家中心の教育行政が次々強化され、子ども達に問題が発生するとそれを理由にさらに権力支配が強化されてきた。今日もいじめや履修漏れの問題は教育の権力支配の強化の材料になっている。現場で子どもと向き合っている職員は憤懣やるかたないだろうと思う。〈子どもに目を向けた国家の権力支配なら私は大賛成する。しかしずーと実際にそうではなかったし、教育原理的にも不可能。(なぜなら発達の情報は個々の子どもが持っているのだから)教育界での上下関係は世間の常識をはるかに超えている。閉鎖的な教育界の内幕は外部にはあまり知られていない。〈学校の信頼を損なうので外に出さない傾向がある)せいぜい校長と教頭 平教員の関係ぐらいが外から一部見える程度ではないか。学校関係の上下関係の実際は、公的な関係をはるかに超えている。次に例を挙げる ①校内的には学校長の覚えがよくないと、出世はおろか、転勤を余儀なくされたり、昇給を左右される。高じて職場の人間関係まで左右され難しくなり、仕事がやりにくくなる。よく組合の先生が云々の話を聞くが、実際にはそんな力はとっくになくしておりほとんど学校長の一方的な意向で学校運営はやられている。教育の条理に反するに不当なこともチェックすら出来ない状態にある。〈必須漏れやいじめの無報告は多分に関係している) ②学校長と市教委との関係は①とは正反対になり、校長自身教育委員会から転勤を一方的に命ぜられたり、給料も左右される。その上校長は職務に専念できる状態には無い。教委関係の仕事が多く出張続きで学校にいないことの方が多い。近年特に学校を空ける日がふえている。市教委が学校へくる時の管理職の気の使いようは大変なもので、掃除を始め、下駄箱の表示や飾りつけ、お茶の用意、時には昼食の準備,玄関や駅への送迎、非常識とも言える過度な敬語例えば○○教育長先生様、○○指導主事先生様などおかしくなることがある。 ③校長会や教頭会の中も、上下関係が強く1年早くなったかどうかで酒席での態度や言葉遣いが違うと管理職になったばかりの友人はよくぼやいていた。私は都の研究員の時、指導主事や管理職と同席することが多かった上下関係によく違和感を感じたものだ。大人の関係と言うより卑屈なおぞましさを感じた。とても人格的に自立した教育者どうしの関係にはには見えなかった。飲み屋へ行ってもオーバーを脱いであげたり靴を揃えてあげたりその気の使いようはこちらが恥ずかしくなることもあった。 学校関係の上下関係や人間関係は個人的な感情もからめたどろどろしたもので、教育関係の会議や研究会で公正さを感じたことはどこへ行っても40年間ただの1度もなかった。学校関係の社会的な責任は、法と実態上は、はっきりしていて、責任のなすりあいはしなくてすむはず。高校の教育課程は届けた学校と受理した教育委員会が法的に責任を持つのが当然。(必修漏れは学校も教育委員会も国も承知してやっていただろう事は現場感覚では常識だろう。そのための教育委員会の学校訪問も定期的にやってるし、かくしできるほど、学校の教員は特に管理職は子どもの利益を考えたりできる心臓の強い人種ではない。責任を感じて自殺した校長先生は責任を全部おっ被されたからだろう。他人の分も責任を感じる教育関係者の中では少数。記者会見した教頭先生の態度は他人事のようだった。あれも教師の顔。ああいう顔の方が教育関係者には多い。内部の会話では【良心的な先生】といって区別して話すことがよくある。管理職や教委委員会の職員では殆ど聞かず、「あの威張った○○先生」と枕をつけて話される人が実際多い多い。職員間では相手によって礼の仕方一つも違っています)システムや実態や空気をしらずに国会で論議しているのはやはり昨日このブログで書いた【田分けごと〈言〉】ではないか。
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