各種の事件報道を見て

新聞やテレビは毎日次から次へと各種の事件を報道している。無尽蔵でどれだけ貯蔵されているかと思うほどだ。国の公の借金があんなに多いのだから隠された負の財産も計り知れないのだろうか?いじめによる自殺・高校の必須問題・千葉県のパワハラ自殺・福島県知事の収賄など テレビでは各種の論者が奇な目と興味本位を織り交ぜ当事者へ非難の解説をする。どれを見ても今一しっくりしない。考えて見ると他を非難するが自分自身がいつもその外に立っている(私も含め)からではないかと気付いた。どの問題をとっても特殊な問題でなく、社会のシステムも関わった社会的な事件である。論理的には誰もが特に大人は無関係ではないず。自分の責任を前提に他を批判しているのは殆ど見られない。このこと自身が社会的な問題であり各種の事件を生む背景になっているはず。(不良少年には悪いが、甘ちゃんの不良少年の言い草とかわらずいつも他人のせいにする。)私自身を振り返ると単に論理的ではなく、公私とも具体的に、自分の立場を守るため、自分のエゴのため、自分に勇気が無いため、悔やまれることは山ほどあったことは間違いないし反省もしている。自分を含め各種の事件の根っこを明らかにするのが今やれる責任だと思って書いている。 国会を始め今後特に教育問題では政府や各行政の責任者や専門家と言われる学識経験者などががテレビに登場するだろう。99パーセント他を攻める言い方で自らの責任は棚上げされるだろうと思うが、自らの責任の自覚振りを注意深く見たい。いじめによる自殺問題の該当校長先生が自殺原因で言を左右しているのは、いじめの加害者のことを考えてのことだろうが、同時に自らの責任を棚上げしたところから来る混乱にも見える。しかしあの校長先生の態度は一般的であり個人的には責められないが社会的な責任で言えば、学校〈学校長と教職員〉が負うべきだ。このような問題は因果関係を単一的に結びつけることはできない。しかし責任と言う社会的責任から言うと形の上から解釈し、いじめがあったこと事態に本来は市教委や学校が責任を負うべきだ。ただ加害の子ども達もその中で教育的に責任をとらせるせるべきだろう。全国的ないじめの責任は当然文科省にある。責任は社会の仕組みから発生するのではないか。千葉県のパワハラも自殺し家族が訴えたので問題になっているが似たことはどこでも見られることで調べれば収拾つかないだろう。そこまでやらない管理職は貴重だからでオーバーなぐらい職員に尊敬されもてはやされる。このことを分っていないことが社会のシステム上の問題であり、気が付かないでほうておいた行政機関やメディアはは勿論、全く気が付かなかったとは言えない国民も広く責任がある。事態はとっくにそこまで進んでいる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )