「君が代」を歌えるようにする。の意味

学校教育の基準を示した指導要領の、改定で上記フレーズが指導目標に入るらしい。 
   実は、この事をこの日記で取り上げるかどうか迷った。 
  それは、私が卒業式などで問題にされる【君が代】の単なる反対派と取られかねないからである。しかし、それを承知で敢えて書きたい。 
   私は【君が代】の【  】の中に、他の歌でも、体育の跳び箱であっても、ひらがなの読みや算数の足し算や引き算であっても「~できるようにする。」を行政指導の指導目標にする事に同意できない。
     《ついここまで来たか》と学校教育への絶望に近い気持ちにさせられた。 

    大学以来、現場経験40年近く、指導要領の改編時はもとより、指導要領を脇に置き端から端まで何度読んできたか分らないが、唯の一度も【~できるようにする】の文体を指導要領の中で見たことが無い。
  それは、それなりに教育の条理ともいうべき大切な意味があっての事だった。
    勿論自分は学校現場で教壇に立ち、【~できるようにする。】を念頭からはずした事はない。しかし、行政的に用いられると、意味が全く変わってくる。 
   だから、これまでも、また今回の改変でも、【君が代】以外この文体は使われていないだろう。 
  しかし、国歌【君が代】を通して、学校教育の基本理念、教育哲学を変更を意味する一線を越える重要な意味をもつ。  ここは丁寧な説明が必要だが、1例だけ記す。  
   子供達は個々に条件が異なる。  耳が悪くてプールには入れなかったり、心臓や呼吸器系の病気で、医師から体育を止められている子供達をプールに入れたり飛び箱をとばせるか?。個々に《指導》以前の条件を備えているのが子供であり人間である。  
  通常~できるようにすると言う言いい方と、行政的に基準や目標で~できるようにするのは、   全く意味が異なる。
 教師の行政的立場と、目の前の子供や医師の診断のどちらを取るかを選択しなければならない。自分の立場に立つと教育の条理を損なう。 そんな指導要領があるだろうか? 
  教育基本法の第1条《教育の目的》は人格の完成(形成の意味)とある。  歌えるか歌えないかと、人格の完成はどんな関係になるか?  
   敢えてこの日記で取り上げたのは、これだけ学校教育の問題が問われている中で、こ教育の理念に関わる重要な変更をどのメディアも取り上げず、国民や保護者も知らない間に進んでいることである。 
  日本の3年以内の政治経済の行き詰まりは3年前、
   今日のアメリカ発の世界的スタグフレーションは、こんな私でも、個人的に情報をまとめ、2006年(5月)に予知し、予告的にこの日記に書き記した。しかし、ここに至るまで、政府もどのメデイアも【いざなぎ以来の好景気、30年ぶりの底堅い力強い成長と】言い続けてきた。 
   殆どの国民も世界もここに至って悪夢を見ている感じではないか。  
   情報化社会と言われ、情報が溢れているようだが、大切な情報は隠されたり、  間違った情報として流され、ヒトビトは意外なことに翻弄されぱなしなっている。
     大人はまだしも、子供達に悪くは無いか!

    お金の問題ではなく、大人の心の問題!

   落ち着いて考えれば常識的で誰でも分る難しい問題ではない。

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学校もマニュフェスト

新聞の1面トップで学校が保護者にマニュフェストを示すことを伝えていた。 学力テストを始め、これまでの教育行政には諦めににも似た気持ちになって久しく、いちいちは論じたくない。 ただ今日の内外経済危機やその対応を見ていると、何であれもこれもと言う歯がゆい気持ちになる。 特に日本の教育行政の拙さの大元は、子供への理解不足からきている。特別お金がかかるものではないから何とかして欲しいが、経済同様、逆走をするばかり。 

 

親も教師も、専門家からも何も聞こえないのが不思議だ。  経済も教育も見える風景は荒廃しているが、その下で、小さくても新しい芽は  着実に育っていることも確かなこと。  そういうものなんだ。 人為で好き勝手を何時までも続けられる訳が無い。

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G20を終えて

G20の結果を見て、この世界的景気回復にはかなり時間がかかりそうなことと、世界はこれからも今度のような或いはもっと大きな経済危機を、最低2~3度は経験しないと、持続可能な経済のスタートラインにも立てないなと感じた。 

   問題は現在の産業構造のの問題と、持続可能な産業のあり方がどこからも全く伺ず、当面の取り繕い的な対応に終始していたからである。

    2~3日前,NHKの特番「新BSリベート」で日本と世界の著名な学術・実業界の第一線の人が、衛星でつながり、世界経済の問題や今後を討論じていた。しかし、どの論者も現在に至った市場原理主義的な金融産業の範囲内で、誰一人その外側の産業全体の構造的な問題を指摘する人はいなかった。 
  今回の経済危機が投機マネーの乱脈による金融バブルがはじけた事だけだったろうか?単に経済運営の技術の問題だけだったろうか? もっと根底的な問題は無かったのか?
    返す当ても無く借金して消費し、生産を伴わないで利益を上げ、 有限な資源を掘り起こし燃やして物欲を満たしていることは関係なかったか。

 

 地球的な不合理、人間的な不条理が世界経済の危機の根底に横たわっていながら、 敢て、それから目をそらしているように見えて仕方ない。

   トウモロコシを主食にしている人たちが、トウモロコシが車の燃料に回され、食べるに事欠いている。 

   この事を。偉い人たちは原因と対策をどう考えているのだろう?

 

 

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