視座

【視座】 物事を判断する前の認識する対象の基盤(ベース)のつもりで用いてる。
 例えば、(子どもの成長)といった場合も、子どもを生物的存在を視座とするか社会的存在を視座とするかにによって、成長の中味は異なり、どうしたら良いかの内容や方法は違ってくる。
 経済も視座を地球上の人間活動とするか、単に人間活動にするかでは、経済成長の意味も、課題も違ってくる。
 総選挙の政見放送を聴いていると、大袈裟に他との違いを強調し、(政権交代)(責任力)(発想の転換)(官僚政治や仕組みの転換)(政策転換)など言われるが、基本的に従来と変わらず、状況判断の大本になる、【視座の転換】は誰一人口にしないだけでなく、それを感じさせすらしない。
 経済・温暖化や異常気象・パンデミック・安全保障 どれ一つとっても、
 地球規模の自然を含めた空間と切り離せない中で問題は発生している。
 当然地球を視座にせずとも断片的な現象は捉えられ、間に合わせ的な処置はできるし、これまでもやってきた。その結果、問題の根源に目をやった着実な解決へとは進まなかった。
 ここ何年も、成功を収めた政策を見出せず、日増しに地球や人類の危機を指摘する声が大きくなっている事でも分るのではないだろうか。
 どんな問題もそれを捉える視座を確認し俯瞰しない限り人為的な解決は望めないのではないか‥こんな事では、人間はリスク(損失)を覚悟で自然の解決を望む他ない。
 
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今、国に求められているもの

 世界を視座にしても間に合わない。自然を含めた地球空間を視座にしない限り今日抱えている問題の基本的な解決は難しい事がはっきりしてきてはいないだろうか‥
 にも関わらず、総選挙の視座は世界どころか、前近代的な、国や(村)的な利益集団をベースに生み出された政策、或いは村的な利益集団そのものの選択を争っている。
 こんなことで、100年い1度と言われる経済危機のさなかにあって
 選択のマニフェストを発表して1ヶ月もたたない選挙戦の最中、とっくに地球的な課題であった新インフルエンザの対応を目前に突きつけられている。
 世界的に特別日本が遅れている訳ではないが、そういう問題ではない。
 これでは生起する危機を予測できないどころか、渦中に陥っても今日のように混乱するばかりである。何で、もっと多くの人がその事に気付かないのだろう?
 水は足元どころかひざかぶぐらいきている感じである。
 とんでもない方を向いて騒ぎ立ててる総選挙に一般市民はどう向き合ったらいいのだろう‥どこかに投票すればいいのか‥投票するしかないのか‥
 
 
 
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