国家は判断を間違えることは無いのか。

 

  国家の代表者が誰だか分からないが 日本も世界も国家の過ちを国家を代表して謝っているのを見たことが無い。

 国家は判断を誤り無く完全な形で今日に至っているのだろうか。

   温暖化や自然破壊 原発事故 少子高齢化 借金の山など 国家の施策によって権力を行使して招いたものは数限りないが、国家には間違いを認める人がいなくて良いのだろうか。責任者はいないのだろうか。

 これが民主主義の成せる仕組みなら 民主主義は合理的な理念とは言えず 人類は新たに合理的な理念と仕組みを生み出ことが必要になる。

  

  

 

 

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計りが違う

 

 

   自然が無限の癒しや知の対象になるから重要なのではなく 人は自然無しには存在しえないから重要なのだ。

  この2つの違いは

  前者は人を中心に 後者は自然と人を合わせた宇宙を中心に重要さを計っている。どちらが普遍性を持つかは明らかだろう。

    一般的に前者を計りにしていないだろうか。世界は 前者を計りに温暖化からの出口を見出すのは難しい と思う。

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予測される報道を越えて

 

  グレタさんが出席しトランプさんが出席しない国連で始まる気候変動サミットが始まる。

  この世界的なイベントを日本のマスコミは積極的には報道しないだろう と考えている。

  これまでも普通であるかのように政府に忖度して報道してきた。

   国際的に見て 気候変動の対策が遅れている日本の現状を晒さないだろうと予測しながら報道を追って見たい。

   一般的に市民は報道によって社会の現状を知るのだが、日本の場合は忖度された情報を鵜呑みにする傾向すらある。

  そんな情報空間にあっては 逆に市民が先回りして マスコミの報道を予測したら良い。市民は生活をベースにした特別な感覚を持っている。

    株式市場では その常識無しにはやれない。

 

 

  

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