新たに見えた壁


環境問題で最も先進的と思われるドイツの「緑の党」の緑と自然が同じ意味ではないのかな?と思う。おそらく狭義の「自然」ではないか。

だとすると 「カーボン0目標」は「狭義の自然」だから、一般的に使われる「自然」の理念は世界的に政治のテーブルには載っていないことになる。

ここにきて気が付いた。

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成長路線からの軌道修正

世界は経済成長の国際競争とも相まって、自然に対する社会的価値観を下げ、矛盾を引き起こしている。特に大国米・中の成長路線からの軌道修正は大事だが、国家の大小に関係なく可能だし、「塊から始めよ」で、気が付いたところから始めたら良いのだが、国家レベルではなかなか気が付かないようだ。
グレタさん❣に悪かろう!

 

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毒まんじゅう

毒まんじゅう  口に甘くて美味しいが やがて体に回って命を冒す。

安全・安心もそうだったが、見た目にも言葉の響きも良くて手を出すと 後々困る。

 世の中に多過ぎないか 新聞やテレビは宣伝やコマーシャルのオンパレード

 大事な政治までもが宣伝一色

  食べ始めたら やめられない 止まらない 

  その結果を目の前に見ても やめられない 止まらない

  でも いつかは止むよ 毒まんじゅうでは身が持たないから

 

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固有する存在の証

  人は最後の最後まで人の役に立つこと 子や子孫に何を残すかが大事だろう。

  それは財産や名声やお墓ではなく 固有する存在の証そのものではないだろうか。

  例えば 自分にしか見えない風景(意味や価値)。 

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無理

私たち全ての人間が自然に依拠して存在しているにもかかわらず、自然の理念を社会的に深く理解され共有されてはいないようだ。社会の出来事はどんな出来事も自然の全体を抜きには起こり得ないのだが、省かれたり。省かれないまでも自然が個別に存在するかのように扱われる事が多い。

例えば、今日の新聞やテレビで人間や社会との関係で存在する全体的な意味での自然 この言葉を私は何処にも見いだせなかった。

 日本の総裁選や総選挙で掲げる政策の中にも自然の言葉を一個として見いだせない。

このような社会や人間の自然に対する認識の欠落が人間活動を行き詰まらせ混乱させるのは 正に自然の理と言う他ない。

何故なら人間活動が自然に依拠していないのだから。

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