大きな栗の木の下で‥

大きな栗の木下で (あなたと私 )‥と、続く。
 入学式などでよく歌われた歌だが(あなたと私)の所がどうして(私とあなた)
 ではなかったのか、今頃考えている。
 神と自分、仏と自分、自然と人間、他人と自分 ‥ 他人と挨拶する時<おはようございます>も相手への敬意の気持ちだろうし、手紙の(拝啓>も同様である。
 昔、年寄りが朝太陽に手を合わせて拝んでいたのも感謝の気持ちだろう。
 恐らくこれは世界中どこもおなじではないか。
 ところが国際関係では(日米・日中・日韓)のように自分の国が先になる。
 相手の国も同様に(米日・中日・韓日)と自分の国を優先した言葉を使う。
 報道機関のニュースは、言葉使いだけでなく取材、捉え方や論評自身が自国中心になっていることが多い。
 礼儀・礼節は身内を超えた、他のグループや組織、更に国境を超えた時、忘れていいものだろうか?
  礼儀礼節が他者を尊重するものだとすれば、立場や利害、国境を超えた時ほど
   必要ではないか。(ならず者、悪の枢軸)呼ばわりなど、事の次第とは別に
    指弾されて良い話で、これは言葉使いの話ではなく元々己のあり様が問われる。
   (親しき中にも礼儀あり)だから言わずもがなのはずなのに批判どころか批評の対象にすらならない。(善・悪の2元論だと言っていた人がいたが、御伽噺ではないから科学的な批評とは言えない。)
    

 

 
  

 

 
 
 
 


 

 
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これですっきり

仏教は性善説、キリスト教は性悪説と分類される事があるが、出来ればまとめたい。
   
地球人= 間違いを余儀なくされ、それも合わせて理にかなった存在(善人)

     なんて言うのはどうだろう?

             生まれたての純粋無垢な赤ちゃんも
              その世に生まれた以上、その中で生きる。  
       その世に間違いがある限り、間違いの中で生きるしかない。
       だから、生まれながらに間違いは避けられない。
      しかし、地球も人も自然(理)そのものだから、上記のようにまとめると、すっきりした。
 (善・悪の二元論のままでは、人間観として整理されているとは言えない。宗教が対立する)
   
  
      
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見ーつけた!

子供の頃、(かくれんぼ)していて、隠れるのが上手い子や、見つけるのが上手い子がいた。
下手な子もいた。中にはさっさと諦めてしまう子もいるから、見つかってあげたり、鬼ごっこならわざと捕まってあげたりもする。
 「見ーつけた!」あの嬉しそうな声や捕まえた時の感触がいい。
 あの感覚だよ。あれがいつのまにか無くなっていないか?
 別に同じ事をしなくても良いけど、(探して見つける。)あの感覚は全ての生命体の生命維持になくてはならない感覚ではないのか?
 我々、その辺が怪しくなっているような気がする。
 
 
 
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虫やスズメが驚かないか?

地球の温暖化を防ぎたいのなら、その原因の経済成長路線を止めマイナス成長路線に積極的に転換すれば良いだけではないか?
 現在、産業構造の転換が至上命題だろうに、基本的な発想の転換すらせず従来の形で経済成長路線をとりながら、温暖化対策を論議している事自体、矛盾していないか?
実際、過去の約束は実行することなくリーダーシップを取るかのような主張を展開し論争を繰り返している。
 問題は温暖化をどれだけ本気で考えているかが問われているだけである。
 自分達の生命や存在を脅かすと考えるなら、経済は生きるためにあるのだから
 そこを変えれば良いのであって、他人<他国)のことをあれこれ言う前に己<自国)に問うはずである。自分の事としてどれだけ考えているだろう?
 どうも世界の国々がそうはなっていないように見える。
 新インフルエンザに対しても同様で、ほとぼりがさめると視界から消え、「経済だ、選挙だ、防衛だ。」に走る。
 これも世界的な事のようだ。
 
 要するに世界中が安全に対して鈍くなりまともに反応していない。
  
目の前の草花や虫やスズメを見てみたら?
      
 鉢植えや水槽のメダカだっていいから、見てみたら?
 
 
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みんなみんな、探してる

広大そして微小な無限と有限の中で、みんなみんな、探してる。
 生と死、真・善・美、愛と幸せ、時間と空間、他人と自分、ルーツと行き先、自然と子供、そしてお金や居場所  
順番が逆かもしれない。
      道に迷っても迷わなくても、
皆探す。
     
      探す探す、
        スズメもネコも
        ドクダミやアジサイの葉っぱも根っこも
         皆、皆 探す。
        
     今、探そ。
            ゆっくり探そ。
          
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チンプンカンプン

17日、日本政府は担当大臣(与謝野)は【景気の底打ち】を宣言した。日本の景気はっ世界の中で動くから、今後は世界の景気の動向の下振れリスクはありうるとの一言を補足していた。
 実感・実態の無いまま景気の底打ちと、世界経済の動向云々を付け加えて、政府の景気判断だとして国民に伝えられた。
 政府の景気判断は何を言っているのだろう?景気?日本経済? チンプンカンプン以外の意味があるのだろうか?
 あるとすれば、総選挙への布石か、株への投資刺激ぐらいだろうが、景気判断としては、新インフルエンザ対策の無さとは逆のハチャメチャ振りを感じる。
このニュースを伝える人も分って言っているのだろうか?
 
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面白そうな学者発見

 宇宙物理学者の佐藤文隆さんは最新作「わかっているようでわからない」を視点を(天から地を見る)に置いて書かれている。
 地球上の「地」の日常現象は「天」にとって知識の宝庫で大実験室、「地」の素人の立場から、筆者なりに考えた事を伝えたいとのメッセージが添えられている。
 目次の中には(地文台によるサイエンス)(ウソを教えない工夫)など珍しく面白い人に出会えた感じ。興味津々。
 
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暴力

小学生も低学年ほど暴力的なトラブルは多い。しかも、何らかの理由で言葉や情緒や社会性などの発達に問題がある場合その傾向にある。しかし、成長と共に落ち着き暴力的行為は減る。
 世界では暴力の最たるものは戦争だろう。
 喧嘩両成敗とは言わないが、特に強者に知性は感じない。
 
 
 特に、民族間の武力紛争を見ると、人間の性分なのか?と思うこともあるが、
  それもどこか腑に落ちない。
 
 暴力は相互関係<ある意味で似たもの同士)で生ずる。何故なら、違いすぎると喧嘩にもならない。
 
 国家間の紛争も子供の喧嘩の理屈とどこが違うか未だに分らない。

 ぐずぐずしてると、
 (猛毒のパンデミックで戦争をする人もいないだろうから)ウイルスは人間の智恵を乗り越えるかもしれない。
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適応が難しいい理由

外圧と内圧によって縛られた人間は認識自身がふさがれたり歪められる事になる。
 人間が地球環境に適応がスムーズにできないでいるのは、縛られた人間の必然的な結果ではないだろうか。
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どっちでもいいけど

神様のピアノ演奏会と悪魔のピアノ演奏会
神様の美人コンテストと悪魔の美人コンテスト
 どっちへ行こうか?
  どうせ見分けがつかないから、どっちでも良いような気がするけど、
   ちょっと悪魔の方を覗きたい気がする。
 
 見終わって出口を出る時、係員が「表の看板をつけ間違いました。スミマセン」  ギョッ。
    
   
   
   
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