<金曜は本の紹介>
「紀行・華僑の住む国々を巡って(池田昌之)」の購入はコチラ
この本は、三菱銀行員だった著者が1970年頃や1983年頃に駐在した香港や、1972年頃駐在したシンガポール、そしてその近隣地域であるタイやマレーシア、ボルネオ島等を訪れた際の体験記です。
インドネシアやフィリピンも訪れたことはあるようですが、この本は、イギリスの植民地等としてイギリスの影響が強い諸地域を取りまとめたものです。
これらの国々の風土や生き様、文化、食べ物だけでなく、悲しい話も含めて、自分の体験に基づき感じたままをできるだけ忠実に分かりやすく説明した本で、とても面白かったです。
とてもオススメです!
以下は、この本の中で特に面白かった点等です。
・香港の華僑世界の彼らとていっさい人を信用しないというのではない。故郷を離れて流れてきただけに、出身地を共通にする同郷会などを大事にする。その中でも氏姓を共通にする宗親会などの所属員の間では、信頼に基づく相互扶助が盛んに行われていた。こういう同郷会や同業者間の相互扶助的な結びつきを幣(パン)といい、そのための会館を持つ。この幣(パン)の結びつきは華僑やその子孫が生きていくうえで重要な靭帯であった。同じ幣(パン)の所属員でなくても、何かのきっかけでいったん信用すると金銭の貸し借りなどは証文なしで行われるといわれる。その代わり、そのような仲間うちで不義理をすると華僑社会ではもう生きていくのは難しいという。
・しかし不特定多数の「他人」に対しては徹底して遠慮会釈もなく、警戒心も旺盛だった。商取引での掛け値はその典型であり、相手を見て平気で法外な値段を吹っかけてくる。ある観光地で言い値の半分に値切ったのに、あっさり同意されて臍をかんだことがある。人に聞くとその場所では多くても言い値の3分の1くらいから交渉をスタートするべきだといわれた。しかしあまり低い値段を指し値すると相手が怒り出すことがあるので、これがなかなか難しい。値切っても相手が応じなければさっさと立ち去ってみる。すると相手はいくらなら買うかと追っかけてくることがある。そうなるとかなりこちらに分が出てくる。要すれば商品の正当な価値を知らないのは、知らない者の責任であるという理屈である。
・赴任当初の頃、香港チョンガーの徒然に片端から評判の旨い店を試してみたことがある。高峰秀子の「香港食べ歩き」なるグルメの案内書が我々のバイブルであった。するとその中には期待ほどでない店がけっこうあることに気が付いた。地元の事情に詳しい友人に聞いてみると「あそこはコックが替わったからもう駄目だ!」という説明があって、初めて納得したものである。つまり香港では暖簾なるものもあまり信用できない。その辺の情報によく通じていないとがっかりすることになる。当時腕利きのコックが東京やニューヨークに引き抜かれたという話もしばしば聞かれた。
・香港では中華料理屋が麻雀屋を兼ねている。中央にお客が食事をする丸テーブルが並び、壁側には衝立で仕切られたコンパートメントがあって、そこには麻雀卓が置かれている。脇から製図技師が使う式の照明が卓上に延びてきて、手元を照らすという用意周到さだ。香港人は麻雀をこよなく愛してやまない。寸暇を惜しんで卓を囲みたいのだろうか。覗き込んで見ていると、最初に誰かが上がるとその場で現金を受け渡して、そのままゲームセットになる。彼らの取り決めでは、誰かが1回上がるごとに現金決済をするのだ。
・私は「健全な女子理髪」の方にはよくお世話になった。この場合の「女子」の意味は理髪師が全部女性だということだ。普通の散髪が済んだ後に理髪の椅子が横倒しにされ仮眠の寝台へと早変わりする仕掛けになっていた。そしてフェイシャルマッサージで眠りに誘ってくれる。指先を巧妙に使い、眉毛と鼻梁の辺りから、柔らかいタッチでマッサージを始める。これがまさに入神の技ともいうべきもので、1分もたたないうちに深い眠りに落ちるのが常であった。例えばあらかじめ1時間後に起こせと指定しておくと、その時刻には夢の中に現れるが如くやんわりと腕や足のマッサージを再開してくれる。そして最後は快適な目覚めに導き、サッと送り出してくれる。この女子理髪の料金はチップを弾んでも普通の床屋の3倍程度で、当時700、800円くらいだった。ただしここでは広東語しか通じないので、このマッサージと昼寝つき散髪の悦楽にあずかるには、広東語で十分に意思の疎通ができることが前提条件であった。昼寝中の男たちが椅子の寝床に並んで横たわる光景はなかなか壮観だった。まるで河岸に水揚げされたマグロのように静かにずらりと整列しているからだ。
・香港滞在の初期の頃、何でもない迷路のような裏通りに入って薄気味悪さを覚えたことがあったが、香港には本当に足を踏み入れてはいけない地域があったのである。九龍半島の西側、モンコックの海岸側と、香港島西北部にあるケネディタウンなどがそれで、決して近づかないほうがよいといわれたものである。また100ドルの香港紙幣をポケットに常に裸で忍ばせておくとよい、などとも教えられた。この知恵は夜の暗闇の路地裏などで突然ナイフを突きつけられた場合に備えるためだ。100ドル紙幣は赤い色だ。その赤い札を間髪入れず差し出す。出さなければ自分の赤い血を出す破目になるという。いかにも香港らしい処世訓である。
・香港にも短いながら冬がある。外出時にレインコートを羽織りたくなる日もあるので、そういう日には景気付けにプライベートで職場の部下たちとワンチャイの蛇料理専門店「蛇王源」に出かけることがあった。もちろん定番の蛇スープは欠かせないが、鹿の肉などの精力料理などのほかに忘れられない一品は、三種類の蛇の肝酒であった。注文すると勘袋を客の前に取り出して、咬まれない様に蛇の首筋を押さえてから取り出す。そして空いた手で蛇の下半身をしごいて肝のありかを探ってから、ナイフで大豆の大きさの肝を手際よく切り出すのである。三種類の蛇がこのような作業で肝を抜かれ調理場送りとなる。それから3粒の肝を景徳鎮の白いお椀に入れ、70度のパイチュー(白酒)を少量注いでスプーンでかき混ぜる。すると3粒の肝は鮮やかな暗緑色の液体に早変わりする。固唾を呑んでその儀式を眺めていた我々は、そこで一斉に嘆声を挙げる。給仕が厳かに椀を差し出して一気に飲み干せという。それはそれこそ一瞬のあっけなさである。問題はその後のことで、その効き目は並大抵ではなかった。我々は職場へ帰還する途中でやたらに身体が火照って、シャツ姿になって歩く始末となった。ある部下は日頃から血圧を気にはしていたが、しばらく頭痛に悩ませられたという。私の場合、その夜は明らかに身体の一部分にコントロールしにい変調を感じた。
・シンガポールでまず我々を歓迎してくれたのは、何よりも豊富で新鮮な果物であった。よく食べたのがパパイヤやマンゴーだ。シンガポールでは特にパパイヤがいい。サイズも大きくてうす甘い。ジューシーな果肉が食卓を豊かにする。
・それは理髪屋で、シンガポールの伊勢丹の2階の食料品売り場を出てアポロホテルに向かう回廊にあったのである。いわゆる「女子理髪」で、香港とはまた別のセールス・ポイントを持った男子専科の場所であった。特別なことはしないといったが、実は客が望めばもう一つ売り物があった。それは技術抜群の耳掃除である。耳鼻科の医者が使う式の内視鏡を頭部に装着して耳掃除を行うのである。さらに物々しい七つ道具がステンレスの筒に入っている。使う綿棒は先端が湾曲する鉤がついたヤツだ。それを筒から取り出して、耳孔の壁にへばりついた耳垢を細心の注意を払いながら掘り起こす。固くこびりついている部分に遭遇した場合には、直線の針に綿がついた綿棒を消毒用のアルコールに浸し、その部分に当てて軟らかくしてからおもむろに掘り起こすという念の入れ方だ。演出効果を考えてか、耳垢を少しずつ取り出すような愚かな真似はしない。掘り起こし作業が終わったところでピンセットを使って根っこの部分ごと一挙にゴソッと掘り出す。それをハイッとばかりに目の前に広げてみせる。
・1973年に日本から来た取引先の案内を兼ねてクアラルンプールとペナンを訪れた。KLでは日系の進出企業を何社か訪問して実情を聞いた。いろいろな苦労話を聞いたが、現地社員の採用の話題が多かった。マレーシア政府が協力に推進しているブミプトラ政策(マレー人優先雇用策)が問題だという。能率が比較的劣るマレー人を一定の割合は必ず雇用しなければならないという、不合理さを訴える声であった。
<目次>
はじめに
第1章 香港-不死鳥の華僑世界
郷愁を誘う古き時代の匂い
<1970年当時の香港で見た最初の風景>
<「スージー・ウォンの世界」や「慕情」の香港へのノスタルジー>
押し寄せる時代の波間で
<難民の流入と加工貿易基地への転進>
<寄港地特有のメンタリティ>
<香港風商売の流儀>
<臨戦態勢の麻雀ルール>
<男性天国的香港>
<当時の香港の治安>
<香港の闇の部分>
華南的な風土に生きる人々
<広東語の世界>
<諺に「食は広州(香港?)にあり」という>
<香港人のヤムチャ(飲茶)好き>
<いわゆる生活のマナーについて>
家族と生活する香港
<香港と運転免許>
<家族と一緒の生活>
<恐ろしい台風の被害>
<駐在員家庭の主婦たちの日常>
<休日の楽しみ>
<香港でのゴルフ>
香港人の心の内奥
<忍び寄る政治の影>
<香港人の心の拠り所>
香港とのしばしの別れ
<空港での見送り騒ぎ>
二度目の赴任
<中国への返還交渉に揺れる香港>
<香港経済の新展開>
変化する香港の顔
<香港の都市としての変貌>
<斑模様に欧風化する香港の若い世代>
<「返還」問題のその後と香港人の華僑的対応>
<商売の変わり身の早さ>
我々駐在員の生活
<居住環境や生活の変化など>
<香港でのゴルフ事情の変化と当時の思い出>
香港との再度の別れ
<空港での見送り>
香港返還の日
<「返還」のセレモニー>
<香港の行方>
第2章 シンガポール-華僑の国造り、赤道直下に咲いた園芸の花
不夜城の香港からガーデンシティへ
<シンガポールとの係わり合い>
<コロニアルスタイルが残るガーデンシティ>
<単身で滞在したシンガポール>
歴史の足跡
<シンボルはマーライオン>
華僑を中心にした国造りを支えたもの
<開発独裁? の優等生>
<他民族を結びつける紐帯>
移ろいゆく伝統社会の姿
<再開発で消える古い街>
<港町的風俗の名残>
家族との南洋生活
<高温多湿とどう付き合うか>
<マレー人メイドの悲哀>
<シンガポールでの食の楽しみ>
生活の彩り
<カントリークラブでのクラブライフ>
<シンガポールならではのゴルフの思い出>
<単調さを凌ぐ小旅行>
シンガポールのその後とこれから
<その後のシンガポール訪問>
<シンガポールの将来>
第3章 タイ-変貌する祈りの国
初対面のタイ
<香港からタイへの出張>
<タイの第一印象>
70年代初頭のタイでの経験
<商工業や金融を支配する華僑資本>
<週末のバンコック>
<バンコックのナイトライフ>
<アユタヤへの旅>
<70年代初頭のタイの政治・経済状況>
約10年後の1980年代のタイ再訪
<10年間の地代の変化>
<タイの文化遺産の深層を見る>
さらに10年後の1990年代のタイ再訪
<日本からの訪タイ>
<郊外のサラブリでのゴルフ>
タイ、その残骸
<タイ人のメンタリティ>
第4章 マレーシア-多様な民族の複合国家の悩み
マレー半島の都市を行く
<シンガポールとマレーシア、インドネシアの関係>
<シンガポールからマレーシアへの出張>
<密林の道を走る>
シンガポールからの家族旅行
<ペナン島への旅>
<マレー半島の自動車旅行>
後年のシンガポール・マレーシア再訪
<シンガポールからマレーシアへの船上でのセミナー>
<再び洋上セミナーに乗ってマレーシアを通る>
第5章 ボルネオ(東マレーシアとブルネイ)-南海の果てに立つ
サラワク州を行く
<人間の昔を思い出す場所>
ブルネイの夕焼け
<夕焼け空に我が心を奪われる>
サバ州の港町
<サバの港町の典型、コタ・キナバル>
<人の営みの夢の跡、サンダカンの憂愁>
おわりに
主要参考文献
面白かった本まとめ(2007年)
面白かった本まとめ(2006年)
面白かった本まとめ(~2006年)
<今日の独り言>
4歳の息子が突然「キッチングー!」 「クォォォーー」と言いました・・・。幼稚園で友達に習って来たんですか・・・^_^;)
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この本は、三菱銀行員だった著者が1970年頃や1983年頃に駐在した香港や、1972年頃駐在したシンガポール、そしてその近隣地域であるタイやマレーシア、ボルネオ島等を訪れた際の体験記です。
インドネシアやフィリピンも訪れたことはあるようですが、この本は、イギリスの植民地等としてイギリスの影響が強い諸地域を取りまとめたものです。
これらの国々の風土や生き様、文化、食べ物だけでなく、悲しい話も含めて、自分の体験に基づき感じたままをできるだけ忠実に分かりやすく説明した本で、とても面白かったです。
とてもオススメです!
以下は、この本の中で特に面白かった点等です。
・香港の華僑世界の彼らとていっさい人を信用しないというのではない。故郷を離れて流れてきただけに、出身地を共通にする同郷会などを大事にする。その中でも氏姓を共通にする宗親会などの所属員の間では、信頼に基づく相互扶助が盛んに行われていた。こういう同郷会や同業者間の相互扶助的な結びつきを幣(パン)といい、そのための会館を持つ。この幣(パン)の結びつきは華僑やその子孫が生きていくうえで重要な靭帯であった。同じ幣(パン)の所属員でなくても、何かのきっかけでいったん信用すると金銭の貸し借りなどは証文なしで行われるといわれる。その代わり、そのような仲間うちで不義理をすると華僑社会ではもう生きていくのは難しいという。
・しかし不特定多数の「他人」に対しては徹底して遠慮会釈もなく、警戒心も旺盛だった。商取引での掛け値はその典型であり、相手を見て平気で法外な値段を吹っかけてくる。ある観光地で言い値の半分に値切ったのに、あっさり同意されて臍をかんだことがある。人に聞くとその場所では多くても言い値の3分の1くらいから交渉をスタートするべきだといわれた。しかしあまり低い値段を指し値すると相手が怒り出すことがあるので、これがなかなか難しい。値切っても相手が応じなければさっさと立ち去ってみる。すると相手はいくらなら買うかと追っかけてくることがある。そうなるとかなりこちらに分が出てくる。要すれば商品の正当な価値を知らないのは、知らない者の責任であるという理屈である。
・赴任当初の頃、香港チョンガーの徒然に片端から評判の旨い店を試してみたことがある。高峰秀子の「香港食べ歩き」なるグルメの案内書が我々のバイブルであった。するとその中には期待ほどでない店がけっこうあることに気が付いた。地元の事情に詳しい友人に聞いてみると「あそこはコックが替わったからもう駄目だ!」という説明があって、初めて納得したものである。つまり香港では暖簾なるものもあまり信用できない。その辺の情報によく通じていないとがっかりすることになる。当時腕利きのコックが東京やニューヨークに引き抜かれたという話もしばしば聞かれた。
・香港では中華料理屋が麻雀屋を兼ねている。中央にお客が食事をする丸テーブルが並び、壁側には衝立で仕切られたコンパートメントがあって、そこには麻雀卓が置かれている。脇から製図技師が使う式の照明が卓上に延びてきて、手元を照らすという用意周到さだ。香港人は麻雀をこよなく愛してやまない。寸暇を惜しんで卓を囲みたいのだろうか。覗き込んで見ていると、最初に誰かが上がるとその場で現金を受け渡して、そのままゲームセットになる。彼らの取り決めでは、誰かが1回上がるごとに現金決済をするのだ。
・私は「健全な女子理髪」の方にはよくお世話になった。この場合の「女子」の意味は理髪師が全部女性だということだ。普通の散髪が済んだ後に理髪の椅子が横倒しにされ仮眠の寝台へと早変わりする仕掛けになっていた。そしてフェイシャルマッサージで眠りに誘ってくれる。指先を巧妙に使い、眉毛と鼻梁の辺りから、柔らかいタッチでマッサージを始める。これがまさに入神の技ともいうべきもので、1分もたたないうちに深い眠りに落ちるのが常であった。例えばあらかじめ1時間後に起こせと指定しておくと、その時刻には夢の中に現れるが如くやんわりと腕や足のマッサージを再開してくれる。そして最後は快適な目覚めに導き、サッと送り出してくれる。この女子理髪の料金はチップを弾んでも普通の床屋の3倍程度で、当時700、800円くらいだった。ただしここでは広東語しか通じないので、このマッサージと昼寝つき散髪の悦楽にあずかるには、広東語で十分に意思の疎通ができることが前提条件であった。昼寝中の男たちが椅子の寝床に並んで横たわる光景はなかなか壮観だった。まるで河岸に水揚げされたマグロのように静かにずらりと整列しているからだ。
・香港滞在の初期の頃、何でもない迷路のような裏通りに入って薄気味悪さを覚えたことがあったが、香港には本当に足を踏み入れてはいけない地域があったのである。九龍半島の西側、モンコックの海岸側と、香港島西北部にあるケネディタウンなどがそれで、決して近づかないほうがよいといわれたものである。また100ドルの香港紙幣をポケットに常に裸で忍ばせておくとよい、などとも教えられた。この知恵は夜の暗闇の路地裏などで突然ナイフを突きつけられた場合に備えるためだ。100ドル紙幣は赤い色だ。その赤い札を間髪入れず差し出す。出さなければ自分の赤い血を出す破目になるという。いかにも香港らしい処世訓である。
・香港にも短いながら冬がある。外出時にレインコートを羽織りたくなる日もあるので、そういう日には景気付けにプライベートで職場の部下たちとワンチャイの蛇料理専門店「蛇王源」に出かけることがあった。もちろん定番の蛇スープは欠かせないが、鹿の肉などの精力料理などのほかに忘れられない一品は、三種類の蛇の肝酒であった。注文すると勘袋を客の前に取り出して、咬まれない様に蛇の首筋を押さえてから取り出す。そして空いた手で蛇の下半身をしごいて肝のありかを探ってから、ナイフで大豆の大きさの肝を手際よく切り出すのである。三種類の蛇がこのような作業で肝を抜かれ調理場送りとなる。それから3粒の肝を景徳鎮の白いお椀に入れ、70度のパイチュー(白酒)を少量注いでスプーンでかき混ぜる。すると3粒の肝は鮮やかな暗緑色の液体に早変わりする。固唾を呑んでその儀式を眺めていた我々は、そこで一斉に嘆声を挙げる。給仕が厳かに椀を差し出して一気に飲み干せという。それはそれこそ一瞬のあっけなさである。問題はその後のことで、その効き目は並大抵ではなかった。我々は職場へ帰還する途中でやたらに身体が火照って、シャツ姿になって歩く始末となった。ある部下は日頃から血圧を気にはしていたが、しばらく頭痛に悩ませられたという。私の場合、その夜は明らかに身体の一部分にコントロールしにい変調を感じた。
・シンガポールでまず我々を歓迎してくれたのは、何よりも豊富で新鮮な果物であった。よく食べたのがパパイヤやマンゴーだ。シンガポールでは特にパパイヤがいい。サイズも大きくてうす甘い。ジューシーな果肉が食卓を豊かにする。
・それは理髪屋で、シンガポールの伊勢丹の2階の食料品売り場を出てアポロホテルに向かう回廊にあったのである。いわゆる「女子理髪」で、香港とはまた別のセールス・ポイントを持った男子専科の場所であった。特別なことはしないといったが、実は客が望めばもう一つ売り物があった。それは技術抜群の耳掃除である。耳鼻科の医者が使う式の内視鏡を頭部に装着して耳掃除を行うのである。さらに物々しい七つ道具がステンレスの筒に入っている。使う綿棒は先端が湾曲する鉤がついたヤツだ。それを筒から取り出して、耳孔の壁にへばりついた耳垢を細心の注意を払いながら掘り起こす。固くこびりついている部分に遭遇した場合には、直線の針に綿がついた綿棒を消毒用のアルコールに浸し、その部分に当てて軟らかくしてからおもむろに掘り起こすという念の入れ方だ。演出効果を考えてか、耳垢を少しずつ取り出すような愚かな真似はしない。掘り起こし作業が終わったところでピンセットを使って根っこの部分ごと一挙にゴソッと掘り出す。それをハイッとばかりに目の前に広げてみせる。
・1973年に日本から来た取引先の案内を兼ねてクアラルンプールとペナンを訪れた。KLでは日系の進出企業を何社か訪問して実情を聞いた。いろいろな苦労話を聞いたが、現地社員の採用の話題が多かった。マレーシア政府が協力に推進しているブミプトラ政策(マレー人優先雇用策)が問題だという。能率が比較的劣るマレー人を一定の割合は必ず雇用しなければならないという、不合理さを訴える声であった。
<目次>
はじめに
第1章 香港-不死鳥の華僑世界
郷愁を誘う古き時代の匂い
<1970年当時の香港で見た最初の風景>
<「スージー・ウォンの世界」や「慕情」の香港へのノスタルジー>
押し寄せる時代の波間で
<難民の流入と加工貿易基地への転進>
<寄港地特有のメンタリティ>
<香港風商売の流儀>
<臨戦態勢の麻雀ルール>
<男性天国的香港>
<当時の香港の治安>
<香港の闇の部分>
華南的な風土に生きる人々
<広東語の世界>
<諺に「食は広州(香港?)にあり」という>
<香港人のヤムチャ(飲茶)好き>
<いわゆる生活のマナーについて>
家族と生活する香港
<香港と運転免許>
<家族と一緒の生活>
<恐ろしい台風の被害>
<駐在員家庭の主婦たちの日常>
<休日の楽しみ>
<香港でのゴルフ>
香港人の心の内奥
<忍び寄る政治の影>
<香港人の心の拠り所>
香港とのしばしの別れ
<空港での見送り騒ぎ>
二度目の赴任
<中国への返還交渉に揺れる香港>
<香港経済の新展開>
変化する香港の顔
<香港の都市としての変貌>
<斑模様に欧風化する香港の若い世代>
<「返還」問題のその後と香港人の華僑的対応>
<商売の変わり身の早さ>
我々駐在員の生活
<居住環境や生活の変化など>
<香港でのゴルフ事情の変化と当時の思い出>
香港との再度の別れ
<空港での見送り>
香港返還の日
<「返還」のセレモニー>
<香港の行方>
第2章 シンガポール-華僑の国造り、赤道直下に咲いた園芸の花
不夜城の香港からガーデンシティへ
<シンガポールとの係わり合い>
<コロニアルスタイルが残るガーデンシティ>
<単身で滞在したシンガポール>
歴史の足跡
<シンボルはマーライオン>
華僑を中心にした国造りを支えたもの
<開発独裁? の優等生>
<他民族を結びつける紐帯>
移ろいゆく伝統社会の姿
<再開発で消える古い街>
<港町的風俗の名残>
家族との南洋生活
<高温多湿とどう付き合うか>
<マレー人メイドの悲哀>
<シンガポールでの食の楽しみ>
生活の彩り
<カントリークラブでのクラブライフ>
<シンガポールならではのゴルフの思い出>
<単調さを凌ぐ小旅行>
シンガポールのその後とこれから
<その後のシンガポール訪問>
<シンガポールの将来>
第3章 タイ-変貌する祈りの国
初対面のタイ
<香港からタイへの出張>
<タイの第一印象>
70年代初頭のタイでの経験
<商工業や金融を支配する華僑資本>
<週末のバンコック>
<バンコックのナイトライフ>
<アユタヤへの旅>
<70年代初頭のタイの政治・経済状況>
約10年後の1980年代のタイ再訪
<10年間の地代の変化>
<タイの文化遺産の深層を見る>
さらに10年後の1990年代のタイ再訪
<日本からの訪タイ>
<郊外のサラブリでのゴルフ>
タイ、その残骸
<タイ人のメンタリティ>
第4章 マレーシア-多様な民族の複合国家の悩み
マレー半島の都市を行く
<シンガポールとマレーシア、インドネシアの関係>
<シンガポールからマレーシアへの出張>
<密林の道を走る>
シンガポールからの家族旅行
<ペナン島への旅>
<マレー半島の自動車旅行>
後年のシンガポール・マレーシア再訪
<シンガポールからマレーシアへの船上でのセミナー>
<再び洋上セミナーに乗ってマレーシアを通る>
第5章 ボルネオ(東マレーシアとブルネイ)-南海の果てに立つ
サラワク州を行く
<人間の昔を思い出す場所>
ブルネイの夕焼け
<夕焼け空に我が心を奪われる>
サバ州の港町
<サバの港町の典型、コタ・キナバル>
<人の営みの夢の跡、サンダカンの憂愁>
おわりに
主要参考文献
面白かった本まとめ(2007年)
面白かった本まとめ(2006年)
面白かった本まとめ(~2006年)
<今日の独り言>
4歳の息子が突然「キッチングー!」 「クォォォーー」と言いました・・・。幼稚園で友達に習って来たんですか・・・^_^;)