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「嫌われる勇気(岸見一郎、古賀史健)」という本はとてもオススメ!

2016年05月27日 01時00分00秒 | 

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 「嫌われる勇気」という本は、その題名が衝撃的ですが、フロイト・ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「悩み多き青年と、アドラー思想の哲人による対話篇」という物語形式で分かりやすく具体的に説明したものです。
 
 本書はずっとベストセラーで気になってはいたのですが、実は心理学の本だったとは驚きましたね。

 欧米で絶大な人気を誇るアドラー心理学は「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いにきわめてシンプルかつ具体的に答えを提示するものとのことです。

 本書を読んでいると、他の自伝や人生向上モノの本でもよく書かれている例えば、「感謝すること」「他人は変えられないので自分が変わるしかない」「今を真剣に生きること」などがあり、あぁぁこれらってアドラー心理学だったたんだぁと納得しましたね。

 そのほか世界的ベストセラーの「人を動かす」や「道は開ける」で知られるデール・カーネギーや、「7つの習慣」で有名なスティーブン・コヴィーも実はアドラー思想が色濃く反映されているようです。
なるほど♪

 本書はその他に、実はトラウマはなく、自分を変えずにそのまま楽に生きたいという目的で引きこもりや赤面症などを引き起こしているということや、実は子供に対してほめるというのは、操作にあたり、良くないというのは衝撃的でしたね。

 子供に対しては、子供の課題には親は介入してはならず、子供に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持たせ、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのが大切なようです。
具体的には縦の関係であるほめたり叱ったりするのではなく、横の関係である感謝や喜びを伝えることが良いようです。

 それから本書の題名にもなっていますが「自由とは他者から嫌われること」であり、誰かに嫌われているということは、自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることの印で、他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない、つまり自由になれない、というのは驚きましたね。
嫌われることを怖れないことが大切なようです。
しかし、この考え方で、気持ちが救われる方はたくさんいるのではないかと思います。
ただ念のため付け加えると、わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けと言っているのではないので、誤解しないようにお願いします^_^;)

本書は一度読んだだけではよく理解できなかったので、2度最初から読んで、それからポイントとなるところを何度も読み返しました。
素晴らしい本だと思います。
さすがベストセラーですね。

また、続編の「幸せになる勇気」も読んでみたいと思います。

「嫌われる勇気」はとてもオススメです!!

 また、本書では以下のポイント等について書かれています

・アドラー心理学は、フロイト的なトラウマのの原因・結果論ではなく、目的に沿った行動論で考える→人は変われる

・大切なのは、何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである

・ライフスタイルは10歳前後に選択しているが、それを選び直すことは可能

・自分が不幸なのは過去や環境や能力のせいではない。幸せになる勇気が足りていないだけ

・人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである

・我々を苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」すなわち勝手な思い込みである→その主観は自分の手で選択可能

・自らの劣等感をある種の言い訳に使い始める劣等コンプレックスはライフスタイルを変える勇気を持ち合わせていないということ→努力と成長が必要

・自慢する人は、それは劣等感を感じているからにすぎない

・人生とは誰かと競争するのが目的ではなく、ただ前を向いて進むことに価値がある

・対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れられない→他者全般や世界を敵とみなしてしまう

・競争から解放→他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになる→人々は自分の仲間なのだと実感でき幸せになれる

・権力争いに加わると敗者は復讐に発展してしまう→権力争いには挑まれても乗ってはいけない

・誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りることは「負け」ではない

・アドラー心理学の行動面の目標は「自立すること」「社会と調和して暮らせること」、行動を支える心理面の目標が「私には能力がある」という意識、それから「人々は私の仲間である」という意識

・アドラー心理学は他者を変えるための心理学ではなく自分が変わるための心理学

・アドラーは相手を束縛することを認めない。相手が幸せそうにしていたらその姿を素直に祝福することができる。それが愛である。互いを束縛し合うような関係はやがて破綻してしまう。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができる。

・恋人や夫婦の関係では、ある時期を境にして相手のやることなすこと、すべてに腹が立つようになることがある。これはその人がどこかの段階で「この関係を終わらせたい」と決心をして、関係を終わらせるための材料を探し回っているからそう感じるのである。相手は何も変わっていない。自分の「目的」が変わっただけである。人はその気になれば、相手の欠点や短所などいくらでも見つけだすことができる。きわめて身勝手な生き物である。たとえ相手が聖人君子のような人であったとしても嫌うべき理由など簡単に発見できる。それは他者を「敵」と思うことで逃げているだけである。

・アドラー心理学では他者からの承認を求めることを否定する。他者から承認される必要はない。承認を求めてはいけない。

・他者の期待を満たすために生きているのではないし、他者の期待は満たす必要はない。他者もまたあなたの期待を満たすために生きているのではない。

・あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと-あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされる。

・アドラー心理学は放任主義を推奨するものではない。放任とは子供が何をしているのか知らない、知ろうともしない、という態度である。そうではなく子供が何をしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。けれども、子供の課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのにあれこれ口出ししてはいけない。自分を変えることができるのは、自分しかいないのである。

・自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけである。一方でその選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話である。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的でなおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めたアドラー心理学ならではの画期的な視点となる。

・課題の分離をすることなく、他者の課題に介入していったほうが楽な場面もあるでしょう。たとえば育児の場面で、子供がなかなか靴のひもを結べずにいる。忙しい母親からすると、結べるまで待つよりも自分で結んだほうが早い。でも、それは介入であり、子供の課題を取り上げてしまっているのです。そして介入が繰り返された結果、子供は何も学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになります。アドラーはいいます。「困難に直面することを教えられなかった子供たちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」と。

・アドラー心理学には常識へのアンチテーゼという側面があります。原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること。人の悩みはすべて対人関係の悩みだと考えること。また、承認を求めないことや課題の分離も、すべてが常識へのアンチテーゼでしょう。

・「自由とは、他者から嫌われることである」。あなたが誰かにきらわれているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。確かに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きわまりない生き方であり、同時に不可能なことです。自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは他者から嫌われることなのです。嫌われることを怖れるなといっているのです。わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けといっているのではありません。そこは誤解しないでください。

・嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。それが人間にとっての自由なのです。もし、私の前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして、どちらか一方を選べといわれたとしましょう。私なら迷わず後者を選びます。他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。つまり、自由に生きたいのです。

・「嫌われたくない」と願うのは私の課題かもしれませんが、「私のことを嫌うかどうか」は他者の課題です。私をよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。幸せになる勇気には「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

・「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。「わたし」に執着している人は、すべて自己中心的です。だからこそ「自己への執着」を「他者への関心」に切り換えなければならないのです。

・人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです。そこには感謝も尊敬も存在しません。我々が他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子供を操作するためだからなおです。
 
・誰かにほめられたいと願うこと。あるいは逆にほめてやろうとすること。これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です。アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。

・手伝ってくれたパートナーに「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。あるいは「うれしい」と素直な喜びを伝える。「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチです。いちばん大切なのは、他者を「評価」しないということです。評価の言葉とは縦の関係からでてくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

・人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。

・他者に関心を寄せること、そして横の関係を築き、勇気づけのアプローチをしていくこと。これらはすべて「わたしは誰かの役に立っている」という生の実感につながり、回り回ってあなたの生きる勇気につながるのです。

・他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。

・自己への執着を他者への関心に切り換え、共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つになります。

・「自己受容」とは仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。「他者信頼」とは他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが他者信頼です。「他者貢献」とは「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそなされるものなのです。わかりやすい他者貢献は仕事でしょう。社会に出て働くこと。あるいは家事をこなすこと。労働とは金銭を稼ぐ手段ではありません。我々は労働によって他者貢献をなし共同体にコミットし、「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感してひいては自らの存在価値を受け入れているのです。

・アドラー心理学の掲げる目標である「自立すること」と「私には能力がある、という意識」は、自己受容に関する話ですね。一方「社会と調和して暮らせること」と「人々は私の仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。人生の目標は共同体感覚だというわけですね。

・アドラー心理学を本当に理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえいわれています。つまり40歳から学び始めたとすれば、プラス20年が必要で60歳までかかる。20歳から学びはじめた場合にはプラス10年で30歳までかかる、と。

・ワーカホリックの人。この人たちもまた明らかに人生の調和を欠いていますおそらく彼らは「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」と弁明するでしょう。しかし、これは人生の嘘です。仕事を口実に、他の責任を回避しようとしているにすぎません。本来は家事にも、子育てにも、あるいは友人との交友や趣味にも、すべてに関心を寄せるべきであって、どこかが突出した生き方などアドラーは認めません。

・人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。しかしそこでの貢献は、目に見えるかたちでなくてもかまわない。誰かの役に立てているという主観的な感覚、つまり「貢献感」があればそれでいい。すなわち、幸福とは「貢献感」のことなのだ。

・アドラー心理学が大切にしていのが、「普通であることの勇気」という言葉です。なぜ「特別」になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。だからこそ、「特別によくある」ことがくじかれたとき、「特別に悪くある」ことへと極端な飛躍をしてしまうのです。しかし、普通であること。平凡であることは、ほんとうによくないことなのか。なにか劣ったことなのか。実は誰もが普通なのではないか。そこを突き詰めて考える必要があります。普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえていのでしょう。普通であることは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。

・チョークで引かれた実線を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることがわかります。線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那の中にしか存在しないのです。それを知らない大人たちは、若者に「線」の人生を押しつけようとします。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも、人生に線などありえません。もしも人生が線であるのなら、人生設計も可能でしょう。しかし、われわれの人生は点の連続でしかない。計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。

・われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証です。人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

・アドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。自らの上空に他者貢献という星を掲げていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにある!そして、刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。

・「ひとりの力は大きい」、いや「私の力は計り知れないほどに大きい」ということです。つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。



良かった本まとめ(2015年下半期)

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