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東海道五十三次 街道をゆく 箱根峠~三島宿 (2)明治天皇小休止跡~山中城

2016年05月16日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第11回目の箱根峠~三島宿(2)明治天皇小休止跡~山中城について紹介したいと思います。

豊臣秀吉が兜(かぶと)を置いたと言われる兜石から旧東海道を歩いて行くと、左側に明治天皇小休止跡がありました。


↑明治天皇小休止跡

すっかり箱根竹に覆われていますが、当時はここに茶屋があり、明治天皇は休息したようです。
当然明治天皇はその茶代を払おうとしたのですが、茶屋の主人は決して受け取らなかったとのことです^_^)
そのやり取りが目に浮かぶようです・・・^_^)

それからしばらく歩くと念仏石がありました。


↑念仏石


↑念仏石の説明

旅の行き倒れを供養して碑を建てられたものとのことです。
当時は特に箱根を越えるのがとても大変だったのでしょう。
私も手を合わせしっかり供養させて頂きました。

そしてしばらく歩くと「一本杉石橋」の説明がありました。
当時箱根旧街道西坂には9カ所の石橋があったようですが、長い年月の間に地中に埋もれてしまいその場所は分からなかったようです。
しかし、古絵図通りの場所から発見され、保存状態が良好のためこの場所に整備・復元されているとのことです。
当時は水路となっていたようですね♪


↑一本杉石橋の説明


↑一本杉石橋

それから、美しく壮大な杉並木の石畳を歩きます。
この道は素晴らしいと思います♪
花粉のシーズンは過ぎているのですが、まだ少しは花粉は飛んでいるようで、花粉症の方がくしゃみをしていましたね^_^;)


↑松並木(写真が横になって申し訳ありません^_^;)以下の写真も同様)

それから「雲助徳利」の墓がありました。


↑雲助徳利の墓


↑雲助徳利の説明

 一説には西国大名の剣道指南役が大酒飲みのため事件を起こして国外追放となり、この箱根で荷物や人等を運搬する雲助の仲間に入ったようです。
その雲助は剣術の腕前があったので雲助をいじめる武士を懲らしめたり、文字が読めない雲助たちのために手紙を読んだり書いたり、相談に乗ったりしているうちに親分以上に慕われるようになったようです。
そのため、その酒が好きだった雲助が亡くなった際には、彼を慕った仲間がお金を出し合って、杯と徳利を刻んだ墓を建てたようです。
そこには実際に今も日本酒等も置かれていて、そんなに慕われていたのかぁと思いましたね^_^)
やはり、人の世界は助け合いながら生きるべきものだと思います♪
考えさせられましたね。

それから、「芝切地蔵尊」がありました。


↑芝切地蔵尊


↑芝切地蔵の説明

 この山中新田の旅籠にとある巡礼姿の旅人が泊まった際に、急に腹痛に襲われ世を去ったようですが、その死ぬ間際に「芝塚を積んで私を地蔵尊として祀って故郷の常陸が見えるようにしてくれれば村人の健康を守る」と言ったため、その通り地蔵尊を祀り、それに合わせて縁日に「小麦まんじゅう」を作るようになると、それが有名となり大勢の参拝人が集まり、そのさい銭と小麦まんじゅうの売り上げでの費用が賄えるようになったとのことです。

この逸話からは、美味しいものを作ったり、良いものを作るモノづくりというのは経済の活性化につながり、素晴らしいことだなぁと改めて思いましたね。
良いものを作って、買って、喜んでとその好循環が続くと、その輪が広がり、みんながより幸せになれるのかと思います♪

それから、北条家の山中城跡に到着し、お弁当の時間です。
お弁当とペットボトルのお茶が配られ、近くの芝生で緑の木々を見ながら、美味しく頂きます。
お弁当はたっぷりとシラスやサクラエビ等が入って美味しかったですね!


↑お弁当

そして、お昼の休憩時間にゆっくりと山中城跡を見学します。
きれいに整備されていて、想像以上に素晴らしいです。
結構広いですね。


↑山中城跡案内図

この山中城は、戦国時代の北条家が建てたもので、1590年の豊臣秀吉による北条征伐の際に落とされてしまったものです。
山中城は日本100名城に指定されるほど素晴らしい城跡のようです。
ちなみに日本100名城の選定基準は以下の5つとのことです♪
(1)優れた文化財・史跡
(2)著名な歴史の舞台
(3)時代・地域の代表
(4)各都道府県から1城以上5城以内
(5)環境保存状況や城郭発達史からの観点
なお、天守閣は残っていません。

特に山中城で有名なのは、畝堀や障子堀と呼ばれる敵の攻撃を防ぐ作りで、これではなかなか城に向かって堀を登って攻めることができませんね。
そのため、なかなか山中城を落とすのは難しいと考えられていました。
秀吉の山中城攻めは6万5千の豊臣秀次の軍で、以前の家康との戦いで活躍できなかったことから死に物狂いで攻めたようです。
また迎える北条軍は4千の兵で守ったようです。
ところが戦いは言い伝えによると豊臣軍の火矢などで正門から崩され、本丸を直接攻められてしまったようです。
なんとたった半日の戦いだったようです・・・。


↑山中城の説明


↑山中城の畝堀が正面少し左奥に見える


↑山中城の障子堀

次は(3)菊池千本槍~六地蔵です。


お勧めなお話(2015年下半期)

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