本日、表題の勉強会が開催されたので参加して来ました。
ジオパーク研究会会員以外にも10名以上が参加して、合計35名前後の勉強会になりました。(写真は開始前)
2名の方が、ご自身の体験から貴重な話しを聞かせて下さいました。
印象に残った内容を報告します。
宇山さん(75歳 波浮港在住 長年教育委員長を務めた方)のお話。
昭和21年~23年の波浮港はサンマの大漁でわいた。大型船は戦争で撃沈していたので20数隻の小型船が神津島などからも集まった。自分の船で本土へ魚を運び、リンゴの木の箱に札束ビッシリ入れて帰ってきた。配当の時が大変だった。昭和21年と22年は、波浮港の年間水揚げ高が全国一、たばこの売上高も全国一。昭和23年には波浮港でダンスパーティが開かれた(食べ物のない時代だった)。波浮の土地代は現在の京橋なみ。25年~30年まではサバが大漁。全国から波浮へ漁船が集まり、200隻ぐらいが港に入った。漁師でなければ男じゃないという時代だった。
良いことばかりではなかった。昭和23年アイオン台風。大雨と強風で、まるで津波のようにどんどん波が入ってきた。1階の天井スレスレまで波が入った。東海汽船待合室は跡形もなくなったが、大きな家は残り、人的被害はなかった。
高校生のころ父から「鳥島は噴火の島で、大きな木がないのが気がかり。木を植えたいが、それがちゃんと植えられているか見て来てほしい」と言われた。7ノットしか出ない船4隻で36時間かかって鳥島に到着。凪の日には島にあがって松の木を植えた(30日ぐらいかかって3000本のクロマツを船員達が植えてくれた)父は「木のない所には、魚はつかない」と言っていた。父を誇らしく思っている。鳥島には測候所があり、お風呂に入れた。
今では海は、水温2°ほど高くなり、海藻が減り、サザエが撮れなくなった。昔の水揚げ高は200トンだったが、今は20トン。海は大きく変わってきている。
前回の噴火のとき、波浮港は20cm地盤沈下した。
来年度までに漁協の前をかさ上げする予定。
港の中の水深も、最初は34~35mだったが今は13~14mになっている。(これについては、砂利船が本土に砂利を運んだ帰りに、船の安定を良くするために運んだ東京湾の水に、泥が混ざっていたのではないかとの意見有り)
白石さん(82歳 保育園園長を経て雑貨店経営)のお話
昭和33年土砂で流された1人として新聞に載った。
昭和25年春高校卒業 保母の学校に通い、昭和29年帰島。保母の仕事をしていた。
昭和33年、狩野川台風。保育園の子ども達は親が迎えにきて全員無事。16時半頃家に着いた。都道も水が流れ、溢れかえって歩けなかった。ドカンと言う大きな音がして、石も大きな木も流れて店に入ってきた。ブロック塀も流れてきた。押し入れまで水が入った。父は脳しんとうで奥まで流れた。3階まで物が乗っていた。海中寺の脇が身長ぐらい掘れていた。
災害翌日、店の中はどろんこで大きな石が転がっていた。兄弟の友達、親戚が手伝いにきてくれた。自衛隊もいたような気がする。役場の人たちは精一杯だったと思う。今のような公のお金は来なかった。
40年の火事では、家が全部焼けてしまった。
意見交換会
後半は、車座になって意見を出し合いました。
様々な話が出ました。
そのうちの、いくつかを紹介します。
「沢は当時は個人のもので、みんな沢に杉を植えていた。危ない場所だと思っていた。第一中学校のあたりは人が住む場所じゃないと言われていたが、近年になってから人が住みはじめた。雨が降ったら沢の近くに行くな、とも伝えられていた。」
「崩れた斜面には特に植林することなく、自然に植生が回復していった。」
「狩野川台風としてまとめた資料がない。元町小学校の100年史。小学校副読本「私たちの大島」昭和51年に2ページ記述。現在は1ページ。全壊、半壊の数字は微妙に違う。資料をどう整理していくのかは、今後の課題。」
「写真に荷物頭に載せて運んでいる写真がある。タオルを頭に巻き、物を乗せ、手放しで平気で歩いた。前垂れで帯はしない。こういうもの(大島固有のもの)を残していかなければいけないと思う。」
「今回は東電は助かったが、まだ崩れる可能性のある土砂が残っている。台風は大型化する。ライフラインをどう守れるか、考えていかなければと思う。」
ところで今回の勉強会では、狩野川台風の被害状況の写真が何枚か映しだされ、崩れた山の斜面の写真や土砂に埋もれた建物や車の写真を見ることができました。
初めて見る写真ばかりで驚きましたが、これは故Hさんの本庁への報告のために撮った写真だとのこと。
現在管理されている方の了解が得られたら、いつかこの場でも写真を紹介したいと思います。
最後に…今日の勉強会の中で特に印象に残ったのが、現在82歳の白石さんの笑顔でした。
台風の土砂災害を2回、噴火を2回、大火を1回を体験された白石さん。住む家を2回もなくし、1ヶ月の島外避難生活も経験し、親しい人が犠牲になられた経験を経ながらなお、
「店で売っていた缶詰などが流され、下流の人に『ごちそうさま』と言われた」と明るく話してくれました。
高校生で鳥島に3000本の松の木を植えた宇山さんもですが、お2人共しなやかで強いです。
今日のお話を聞いていて、数々の災害の中を明るく生きぬいて来た人々の存在こそ
伊豆大島の宝だと、あらためて感じました。
(カナ)
ジオパーク研究会会員以外にも10名以上が参加して、合計35名前後の勉強会になりました。(写真は開始前)
2名の方が、ご自身の体験から貴重な話しを聞かせて下さいました。
印象に残った内容を報告します。
宇山さん(75歳 波浮港在住 長年教育委員長を務めた方)のお話。
昭和21年~23年の波浮港はサンマの大漁でわいた。大型船は戦争で撃沈していたので20数隻の小型船が神津島などからも集まった。自分の船で本土へ魚を運び、リンゴの木の箱に札束ビッシリ入れて帰ってきた。配当の時が大変だった。昭和21年と22年は、波浮港の年間水揚げ高が全国一、たばこの売上高も全国一。昭和23年には波浮港でダンスパーティが開かれた(食べ物のない時代だった)。波浮の土地代は現在の京橋なみ。25年~30年まではサバが大漁。全国から波浮へ漁船が集まり、200隻ぐらいが港に入った。漁師でなければ男じゃないという時代だった。
良いことばかりではなかった。昭和23年アイオン台風。大雨と強風で、まるで津波のようにどんどん波が入ってきた。1階の天井スレスレまで波が入った。東海汽船待合室は跡形もなくなったが、大きな家は残り、人的被害はなかった。
高校生のころ父から「鳥島は噴火の島で、大きな木がないのが気がかり。木を植えたいが、それがちゃんと植えられているか見て来てほしい」と言われた。7ノットしか出ない船4隻で36時間かかって鳥島に到着。凪の日には島にあがって松の木を植えた(30日ぐらいかかって3000本のクロマツを船員達が植えてくれた)父は「木のない所には、魚はつかない」と言っていた。父を誇らしく思っている。鳥島には測候所があり、お風呂に入れた。
今では海は、水温2°ほど高くなり、海藻が減り、サザエが撮れなくなった。昔の水揚げ高は200トンだったが、今は20トン。海は大きく変わってきている。
前回の噴火のとき、波浮港は20cm地盤沈下した。
来年度までに漁協の前をかさ上げする予定。
港の中の水深も、最初は34~35mだったが今は13~14mになっている。(これについては、砂利船が本土に砂利を運んだ帰りに、船の安定を良くするために運んだ東京湾の水に、泥が混ざっていたのではないかとの意見有り)
白石さん(82歳 保育園園長を経て雑貨店経営)のお話
昭和33年土砂で流された1人として新聞に載った。
昭和25年春高校卒業 保母の学校に通い、昭和29年帰島。保母の仕事をしていた。
昭和33年、狩野川台風。保育園の子ども達は親が迎えにきて全員無事。16時半頃家に着いた。都道も水が流れ、溢れかえって歩けなかった。ドカンと言う大きな音がして、石も大きな木も流れて店に入ってきた。ブロック塀も流れてきた。押し入れまで水が入った。父は脳しんとうで奥まで流れた。3階まで物が乗っていた。海中寺の脇が身長ぐらい掘れていた。
災害翌日、店の中はどろんこで大きな石が転がっていた。兄弟の友達、親戚が手伝いにきてくれた。自衛隊もいたような気がする。役場の人たちは精一杯だったと思う。今のような公のお金は来なかった。
40年の火事では、家が全部焼けてしまった。
意見交換会
後半は、車座になって意見を出し合いました。
様々な話が出ました。
そのうちの、いくつかを紹介します。
「沢は当時は個人のもので、みんな沢に杉を植えていた。危ない場所だと思っていた。第一中学校のあたりは人が住む場所じゃないと言われていたが、近年になってから人が住みはじめた。雨が降ったら沢の近くに行くな、とも伝えられていた。」
「崩れた斜面には特に植林することなく、自然に植生が回復していった。」
「狩野川台風としてまとめた資料がない。元町小学校の100年史。小学校副読本「私たちの大島」昭和51年に2ページ記述。現在は1ページ。全壊、半壊の数字は微妙に違う。資料をどう整理していくのかは、今後の課題。」
「写真に荷物頭に載せて運んでいる写真がある。タオルを頭に巻き、物を乗せ、手放しで平気で歩いた。前垂れで帯はしない。こういうもの(大島固有のもの)を残していかなければいけないと思う。」
「今回は東電は助かったが、まだ崩れる可能性のある土砂が残っている。台風は大型化する。ライフラインをどう守れるか、考えていかなければと思う。」
ところで今回の勉強会では、狩野川台風の被害状況の写真が何枚か映しだされ、崩れた山の斜面の写真や土砂に埋もれた建物や車の写真を見ることができました。
初めて見る写真ばかりで驚きましたが、これは故Hさんの本庁への報告のために撮った写真だとのこと。
現在管理されている方の了解が得られたら、いつかこの場でも写真を紹介したいと思います。
最後に…今日の勉強会の中で特に印象に残ったのが、現在82歳の白石さんの笑顔でした。
台風の土砂災害を2回、噴火を2回、大火を1回を体験された白石さん。住む家を2回もなくし、1ヶ月の島外避難生活も経験し、親しい人が犠牲になられた経験を経ながらなお、
「店で売っていた缶詰などが流され、下流の人に『ごちそうさま』と言われた」と明るく話してくれました。
高校生で鳥島に3000本の松の木を植えた宇山さんもですが、お2人共しなやかで強いです。
今日のお話を聞いていて、数々の災害の中を明るく生きぬいて来た人々の存在こそ
伊豆大島の宝だと、あらためて感じました。
(カナ)