グローバルネイチャークラブのガイド日記

グローバルネイチャークラブ(旧グローバルスポーツクラブ)のガイド仲間が観察した伊豆大島の自然の情報を中心にお届けします。

式根島

2014年05月15日 | 火山・ジオパーク
今日は先月、式根島へ行った時の報告です。
(まとめるのをすっかり忘れていました!スミマセン~。)

新島からの朝の連絡船で渡り午後の船で大島に帰って来たので、式根島滞在わずか6時間でした。

新島と同じように、粘りがあって冷えると白くなるタイプの溶岩の島。でも新島のような広い砂浜はなく、入り組んだ地形の小さなビーチが多い…連絡船でわずか10分の距離なのに、なぜ違うのでしょう?

入り江の多い理由を不思議に思っていたら、地質調査総合センターのページhttps://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/niijima/page3_15.htmlに、こんな説明がありました。

「北北西-南南東に伸びる山稜と、同方向の海岸線の湾入が目立つ。これらは粘性の高い溶岩の流動方向に直交するしわのなごり」

へえ~!すると“神引展望台”から眺めた眼下の入り江は、みんな溶岩が流れた時にできた“シワ”だったのですね!!

そんなスケールの大きなこと、想像できませんでした…。

でも、なぜ隣の新島は入り江が少ないのでしょう?新島は約1200年前に、式根島は1万年以上前に噴火した火山らしいので、10倍近く長く、波に削られ続けた結果なのでしょうか?…ううむ~、きっとそうかも…。

式根島自体は長い間噴火していないようですが、西暦838年の神津島噴火、886年の新島噴火の火山灰に、厚く覆われているそうです。しばらくは,灰に覆われて人は住めなかっただろうとのこと。

実際、886年新島の大噴火以降、式根島には人が住んでいなかったのだそうです。
漁や炭焼きで短期間滞在することはあっても、人が住むことはなかったと…。
新たに人が住みはじめたのは124年前。明治22年になってからなのだそうです

人が住みはじめて、あまり時間が経っていいないだけに、水や電気の苦労は近年まで続いていたようです。

「伊豆諸島を知る事典」の著者樋口秀司氏は、本の中で…
「神津島噴火の重粘土層の上に伏流水が流れ、ここに桶を埋めたりして水を得た。水汲みは女の仕事で、大島と同様に頭上運搬で何往復もして水を運んだ。家の水瓶がいっぱいになっていないと嫁として失格だった。昭和30年後半から民宿経営開始。東京で最初の民宿来島者の増加で深刻な水不足となる。米軍射撃場の新島移転問題に伴い美濃部都知事の視察があり、その時の訴えがもととなり、イオン交換式による脱塩浄水場の運転へつながった。1974年(昭和51年)新島から海底送水管での送水開始した。」と語っています。

町中の広場には「水神様」が祀られていました。

水の苦労が続いた大島と、かなり似た暮らしだったのですね。

昔の人はこの風景を見て「あの馬、思い切り水が飲めて良いなぁ」と思ったりしたかも…。

石に刻まれた言葉を、読んでみてください。

「海水を呑んで長生きしているお馬さん」

私には本当に、馬がゴクゴク水飲んでいるように見えましたが、皆さんはいかがでしょう?

ところで、標高99mの神引展望台の周辺には、大島の海岸沿いに生えるオオシマハイネズやクロマツなどが生えていました。

標高235mの新島の石山周辺とかなり似た植物達です。

オオシマハイネズが溶岩を取り巻いて、まるでネックレスのように伸びていました。

海岸から何mぐらい山側まで、この植生なのでしょう?
見た感じ、大島よりもこの海岸植生が広い面積を占めているような気がします。

また、大島では数少ないホルトノキが、あちらこちらで元気に暮らしていました。

赤い葉の混ざった大木のホルトノキの姿が、かなり印象に残りました。
(大島では見かけない風景なので)

今回の式根島滞在では、知人の紹介で地元中学校の先生のお世話になり、車をお借りした上に
生物に詳しい元・理科の先生を紹介していただきました。

その方は虫にも植物にも海岸動物にも、生き物全てに詳しくて「式根島・歩く博物館」のような方でした。それぞれ個性的な伊豆諸島の島々で、楽しい物語を探していけそうな予感がしています。

(カナ)


コメント
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