グローバルネイチャークラブのガイド日記

グローバルネイチャークラブ(旧グローバルスポーツクラブ)のガイド仲間が観察した伊豆大島の自然の情報を中心にお届けします。

ジオガイド養成講座No.13『伊豆大島の生活文化・歴史・伝統1/泉津・岡田・波浮港地区』

2019年02月28日 | 火山・ジオパーク
昨日、表題の講習会があったので参加してきました。

伊豆大島は1955(昭和30)年に町制が敷かれる以前、6つの村に分かれていました。
1963年に完成した大島一周道路のおかげで、今では隣の集落まで移動するのに10分かからない所が多いですが、昔は隣の集落に行くのが大変で、それぞれに独立した暮らしをしていたそうです。そして漁船・廻船の所持を許されていた浦方(海方)と船の所持が許されなかった釜方(山方)に分かれていました。

今回のジオガイド講習では、各集落で代々暮らされてきた方々のお話を聞けるということで楽しみにしていました。

会場は、超満員でした!

たぶん80人以上の参加者だったのではないかと思います。

3名の方のお話を聞き、印象に残ったことを書いてみます。
「」内の言葉は講師の方々のお話からです。

泉津地区・福井さん

島の北東部の集落です。

「山で木を切り塩を炊く暮らし(山方)をしていた。お金をみた人が少なく、生活は困窮していた。江戸時代から続く家で、神棚の裏に「マキリ」という牛の頸動脈を切断する道具を見つけた。以前は牛飼いをしていたらしい。武士はいなかったが、地域に武士の4家の墓がある。」

地域に伝わる伝説が多いのも、この地域の特徴かもしれせん。

大島に流刑になったと言われる役行者(えんのぎょうじゃ)を祀る行者祭が、毎年6月15日に行われていることなどのほか、
「七間沢には、人をばかすイタチがいたと言い伝えられている」など地域に伝わる小さな言い伝えが存在していたことが興味深かったです。
泉津では、最も知られる日忌様(ひいみさま)の話は、「時間がないので次回に」と言うことになりました。

岡田地区・柳瀬さん

船を持つことを許される海方だった岡田地区。

「地形的有利性から他地域より漁業が盛んだった。船は大漁旗をなびかせて帰ってきた。港の中が魚で真っ黒になっていたこともある。また島の竹を内地に運搬し売っていた。岡田地区は教育熱心だと言われ、明治以降65名以上が教師になっている。これは岡田地区が金銭的に繁栄していたからではないか。ただ回船を持っていた家も豪邸を持っていたわけではなく、同じように暮らしていた。信仰心にあふれた地区で、無形文化財にもなっている踊りや歌が引き継がれている。祭りは2日間。1月15日前後の金土日を選んで行なっている」

波浮地区・吉本さん

噴火でできた火口湖が、江戸時代の津波で海と繋がったので人力で岩を砕き、風待ちの港として大賑わいだった時代がありました。

港いっぱいの船の写真を映しながら「実際にはこれよりもっと船があった」と教えてくれました。

「カジキがとれて港いっぱい並んでいた。相手の心を読んで売り買いするのが博打のようだった。狭い範囲にタバコ屋が4-5件あり、酒屋と共に大繁盛。樽にお金を入れて数えていた。船一艘に15〜16人の漁師が乗っていて『波浮銀座』と言われ、まともに歩けないほど大勢の人で溢れ賑わっていた。親には、女性は夜に出歩くなと言われて育った。漁師同士や地元の人たちがあちこちでケンカしていた。そんな中で育ったので強くなった。家は網元で、漁師にお金を立てかえたり、お茶を飲ませたりして世話をする代わりに、お金をもらうなどをしていたようだ。私も小学生時代から良く働いたので、小さいながらも力があった」

吉本さんのお話は生き生きとして親しみやすく、当時の情景が思い浮かびました。

3名の方のお話を伺って、同じ島でも本当に地域ごとに異なる生活をしてきたんだなということを実感として感じました。

とても面白く、ぜひまたもっと時間をとって地域の話をお聞きする機会を、みんなで作っていきたいと思いました。

島の過去と現在をつなぎ、そして未来をみんなで考えていくことができる。そんな伊豆大島ジオパークでありたいですね😀

話すために資料を整え、準備をしてくださった3名の講師の方、この場を準備してくれた事務局の皆さん、ありがとうございました!

(かな)

コメント
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